という私が《秋葉原事件》を起こさなかったのは、なぜだろう?
早計にはいえないが、もしかすると、私の場合、父の教育のおかげもあったかもしれない。早逝した父に関しては処女作に詳しいが、
「共産主義ってなに?」と質問すると、「目の前にごちそうがあっても、おなかが空いた人のそばでは、一人で食べられないっていう気持ちのことだ」
などと答えてくれた人だった。叱られたこともあったが、私の中のよきものを見て、きちんと評価もしてくれた。ある時、ちょっとしたご褒美で、姉弟の前で、缶詰の桃を、一切れ余計にもらったことがあった。
どこかの“お取り寄せスイーツ”ではなく、シロップ漬けの単なる桃である。そんな桃ではあるけれど、その桃は、数十年へた今なお甘く、私は、桃一切れで踏みとどまる何かもある…ように思っている。
他にも支えてくれたものは幾つかあるが、そちらは母がらみで、つまりは、闇に向かうきっかけも母なら、光に向かうきっかけも母だった。
4歳の冬、私は母に連れられて町の教会をたずねている。その際、牧師のお姉さんである、《みぎわさん》という名の、精薄の人と一緒に遊んでいるのだが、マシュマロのような彼女との無垢なる時間も、もしかすると支えになってくれたのかもしれない。(※ちなみに、後年、開いた店の名前は、彼女の名前からの引用である)

桃にマシュマロと続いた後は…
12歳の冬、父が死んだ年の、クリスマス・イブのことだった。前述の牧師が、キャロリングの途中、信徒の人たちと共に、我が家に寄ってくれたことがあった(※教会とはそれきりだったが、牧師は母の不遇を覚えていてくれたのだろう)
突然の来客を迎えた母は、その頃、方位学に凝っていて、「玄関は鬼門の方角だから、使わないで」というのが口癖だった。
私は「キモン」がなんのことなのか、わからなかったが、その言葉の響きは嫌っていた。また上がり框が高くて使いにくいこともあって、私たちは出入りの際、勝手口を使うようになっていたのである。
だが、悪いはずのその方角から、突然、闇を蹴破るような歌が飛び込んできた。
♪ もろびと こぞりて むかえまつれ ひさしく まちにし
しゅはきませり しゅはきませり しゅは しゅは きませり
はじめて聞く歌だった。歌詞はもちろん、シュワ、シュワ、泡がはじけような言葉の意味も、何ひとつとしてわからなかった。だがその歌には圧倒されるような何かがあり、(いったいこれは…)
母は怖れていたはずの玄関で、有り難そうにかしこまっていた。そして私は母の背中ごしに目を丸くし、世の中には、母の歌う歌とは違う、まぶしい歌というものがある…と知らされたのである。
歌はさらなる光を呼び込んでくれた。
17歳。摂食障害がひどくなってしまった私は、当時、奇妙なほどの頑なさで(自分は17歳まで生きないだろう)と思うようになっていた。同級生たちが将来を夢見て進路を考え始める頃、死刑台のエレベーターに乗っていたような私は、鬱々と日々を過ごしていたのだが、
ある夜のこと、例によっての儀式を終えたあと、青い亡霊のような私が、誰もいない居間にポツンと座る。いつもなら部屋に戻って本を読むか、眠るのに、その夜はなぜかTVをつけた。その途端、
イタリアに生まれた聖フランチェスコの若き日を描いた映画、『ブラザーサン・シスタームーン』がはじまったのである。
内容に関しては省かせていただくが、私にとっては号泣という言葉の意味をはじめて知った夜になった。
一瞬ではあったが、抱えていた棘が抜け、心の中に、忘れていた清々しいなにかが、吹き抜けてゆくのがわかったのだ…
そしてこれを限りにピカピカの人生がはじまった…わけではなかった。映画に感動して、教会に通い始めたということもなかった。母も私も相変わらずで、周囲にそうした習慣を持つ人がいなかったためでもあるが、聖書を知らなかった私は、私にとっての《尊く美しいもの》をさらに探求したいという気持ちがつのっていったのである。
17歳の峠を越えた私は、二年間という約束で東京に出る。6畳間に姉と二人で暮らしながら、画廊や美術館巡りを続ける。並行して読書ノートや美術評論のようなものを書き溜めてカトリック作家の本を読みふけり、少しづつ聖書の世界が近づいてくる。
19歳。高校時代の同級生の女の子、石神ひとみちゃんが脳内出血で逝く。
先生になりたいといって静大の教育学部にいた子だが、とても可愛らしくて素朴であたたかい、農家の子だった。「新井さん、いつか家においでよ。柿も栗も桃の木もあるよ」
そういってくれたのに、照れくさくて、「いつかね」とだけいって、訪れることはないままだった。(どうしてひとみちゃんが死んで、私が生きているんだ!)
苦しみの中から絵本が生まれた。私の幻の処女作“忘れていた音”である。(誰にも見せなかった)
21歳。アルバイトでの貯金をはたいた私は(当時の体重は40㎏/163cm)はじめての海外、イタリアに行くのだが、その旅で、決定的に変えられてしまう…
処女作では数行触れただけだが、帰国後に見た家の壁の白さは、今も忘れることができない。
「おかあさん…壁、塗りかえたの?なんだか白いね…」
「なんにも手をいれてないわよ」
「そう?そうなの…なんだか白い、白い、まぶしいね…」
それまで、真っ黒としか思えなかった家の中が、輝いてみえた。旅の間、強力な浄化が起こったのか、泣きっぱなしで、空っぽになった心に(もとからあった)光が現れたのだろう。悪霊の棲家のように思っていた家が、まぶしくてならなかった。世界が闇だったのではなく、私の心が闇だったのか?
《 あなたの内なる目が、あなたの外なる景色を決める 》
その光に導かれるように、宣言する。
「おかあさん、私、付添婦になるよ」
喜びにあふれていう。
「これまで私は人にねだってばかりいた嫌な子だったけど、これからは私の持っている何かを、少しでもいいから人にあげたい。私、付添婦になるよ」
(これを打っている今、身がすくむような思いだが、その時は真底そう思ったので、まぶしい言葉を、あえて記しておく)
一年前、祖父が認知症で入院した際、付き添った経験も下地にあった。だが私が美術方面に進むとばかり思っていた母は、卒倒しそうに驚いていう。
「なぜ、それが付き添い婦なの!」
そうだ。母は私のジャンプを占うことはできなかった。しかしそのことはいわず、摂食障害のこともいわず、「おじいちゃんの時にできたから」とだけいう。
※祖父の介護を親戚は嫌っていたが、私には不思議に思えてならなかった。闇との闘いのさなかにあった私にとって、オムツの処理や尿瓶を扱うことは問題ではなく、それどころか、病院の規律に守られたのか、過食や拒食の衝動も起こらず、祖父の横で集中して本を読み、ノートを取れたことが、うれしいとさえ思ったのである。
確かに…祖父の姿は変わり果てていた。「こんなお父さんの姿は見るのは耐えられない」といって、看護を拒んだ叔母もいたが、いつか自分もそうなるかもしれないではないか。そう思えば、蝶ネクタイやボルサリーノを愛していた祖父の口ぶりが、赤ん坊か狂人のようなものに変わったとしても、私は憐れにこそ思え、おぞましいとは思わなかった。
人間はああもなりうる、こうもなりうる。変転する空なる世界は、“ただそのようにある”だけのもので、尊いのは、人間を人間であらしめている不変の源ではないだろうか。
その源が露わになってくるのは、この世界が価値をおいている可視のものが壊れてきた時であり、その意味では、祖父の極限の姿を見続けていた私は、この時期、世にふたつとない、“特別の絵”を見ていたのかもしれない。
という、近年考えるようになった諸々がわかっていたはずもなく…それでも(当時の私にとっての)病院は、私を守ってくれる場であると同時に、生きている絵を見ることができる美術館であり、医師や看護師等、様々な人間を書き記した、生きている本を読むことのできる図書館と見ていたことは確かだろう…
話がそれてしまったが、数日後、私の意志が固いと見て取った母が、音をあげていう。
「そんなにいうなら…やってごらん」
チリチリ燃えていた導火線がダイナマイトに至り、不思議な爆発を見せた瞬間だった。死んだのは誰だ?誰でもない、古い私が死に、新しい私が生まれた瞬間だった!
救ってくれたのは誰だったのか、明確にはわからないままだった(今はわかっている)母でなかったことは確かだが、母は私に特別な物語を与えてくれ、支えてくれたのだ。だから、時がきた今、こういおう。
摂食障害があっても、いいじゃないか。それを気にするあまり、うずくまってしまうのではなく、吐こうが泣こうが、ともかく前に進もう!
こうして私は、世が世であれば、いつそうなってもおかしくなかったはずの、家庭内暴力や、非行や、援助交際や、薬物中毒には染まらず、きわどいカーブをきって思春期を終える。
闇の中には、《光の踏み石》が置かれていた。(形は違っても、この石はすべての人の中に置かれていると信じている。闇に苦しんでいる人がいたら、思い巡らしてほしい)
危なっかしい足取りではあったが、その石伝いに歩きはじめた私は、病を持つ看護者になる。
そして年月が流れ…
多くの患者さんを看護していた私の摂食障害は、一週間に一度、ふた月に一度、半年に一度と、潮が引いたように消えてゆき…やがて、不思議なめぐり合わせで出会った編集者から、青春記を書くよう依頼されると、生涯住むことになると思っていた「忌まわしき王国」は、やってきたはずのどこかに消えてゆき、あとには本だけが残されたのである。
第一章・了