2009年3月20日 (金)

春の夜の夢

本ブログに不定期連載の予定だった「my storyシリーズ」に、ちっとも手をつけることができずにいる。昨年の開設当初、旧・お客様から写真資料をお寄せいただいたこともあって、申し訳ないことしきり、そこで今回、変則編をupすることにした。


あれは今をさることン年前…“みぎわ”を開店して、まもない頃のことだった。


店の壁は深いワイン色の布張りで、敬愛する舞踏家・大野一雄先生のポスターや、バスク地方の画家の描いたポスターや、リトグラフ等で、そこそこ埋められていた。


以下は、その時代に交わされた、お客様との会話。


「しいていえばあとひとつ、<水辺の写真>があったら飾りたいのだけど、いいのがなくて」


つぶやく私の前にいらしたのは、長年、東急電鉄に勤められ、東急総合研究所の常務となられた、西澤昌幸さんで、永遠の少年のような西澤さんは、電車模型やジオラマ世界をこよなく愛する、心優しい紳士だった。


西澤さんは、清流のほとりにただずむ鹿のような瞳を輝かせ、ピョンと跳ねるような調子でいわれた。

「僕、写真も趣味なんだけど」

(ウッ)


聞いた瞬間、私は、まずオソレた。西澤さんは、私が最初のバイト時代からお世話になっている長ーいお客様だったが、写真が御趣味だなんて聞いたこともなく、そもそも爽やかで明るく、健康200%の西澤さんの作が、この空間にマッチするのか?などと先回りをして失礼きわまりないことを考え、そのセンスと技量をアヤシンダのである。


まったくもって<オソレとは=不毛の感情>だが、こう思うには訳がある。


※どんな業種であれ、店とは、経営者と客のわがままがぶつかり合う場所である。馴染むにつれて両者の素顔が見えてくるのは当然だが、ある時、あるお客様から愛犬写真をみせられた私が、


「可愛いですねぇ」と、相槌をうったところ、

「うちの子達の写真を飾って」

といわれ……になってしまったことがあった。


※私は動物好きだが、こと店に関しては(やってくる皆さんが日常を忘れて遊べるような、あるいは、意識下に抱いている深い願いを吐き出すことのできるような)非日常、夢の空間にしたいと切望していた。そして私は自身のことを、その願いを生み出すために皆に付き添う、お産婆さんのように思っていたのである。


生命が活性化されるための劇場には、生活臭の漂うものは、極力置きたくない。


多くの方々の御支援をいただいて店を開いた私は、きっと(へたなことはできない)=(店も自分も守らなくては)と思って見えない鎧を着込み、自分なりに格調高く、自由な空間をつくろうと(今思うとオカシイくらい力み)奮闘を続けたのである。


その店にポチの写真を飾ったら、別の方がミケの写真を飾ってくれというだろう。次いで、ウサギのウーちゃんの写真が、さらにはハムスターのハム介が、ネオンテトラの金太郎や、インコのチチの写真を飾り終えた頃には、お酉様の「商売繁盛」大熊手を飾ってくれといわれるやもしれず…


バカなこだわりと笑われるだろうか?私は自身の理想を守るため、有難くも悩ましい幾多のリクエストに対し、にっこり却下で“爽やかなNO”を繰り返し、また、コレ式を続けながら通っていただくのは至難の技で…


もとい。


その中にあって、西澤さんは押し付けることなく、それどころか、幾分遠慮がちにいわれたのだ。


「だいぶ前に、カリフォルニアの海岸で撮ったんだけど…」


アメリカ文化に対して偏見をもっていた(当時の)私は、なおも首をかしげ、(青空・サーファー・スケボーのオネーチャン写真)を連想し…ゴメンナサイ!拝見するより先に、ひたすら断ることだけ考えていたのである。


夜の劇場に飾るんだから、シックで、エレガントで、哀愁と抒情を感じるようなものでなきゃ…ね)


「じゃ、近いうちにもってくるから」




Migiwa1 数日後、西澤さんのお写真を拝見した私は、あぁ、なんてうれしい予想外!我が要求のすべてを満たしているド・決まりの作を目にし、長々のタメイキをもらしたのだった。





(おみそれしました…)



かすかに聞こえる波の音。オソレルヒツヨウナド、ナニモナイ…みぎわの余韻に耳を傾けながら、過ぎてゆく春の夜の夢に笑う、この頃である。

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2008年11月 9日 (日)

渋谷・開拓編(4)

517d3czjcnl_2 映画がらみのイントロで話を続けてゆくが、私は不思議な流れで、オスカー女優のキャサリン・ヘップバーンのファンの方とも、御縁をいただいている。

処女作刊行後、抱えた自著をさばくべく、静岡高校の校長だった叔父に電話をしたところ、「卒業生の一人が朝日新聞社の営業にいる」といわれて、のこのこ築地まで訪ねたことが、きっかけだった。

お会いしたその方から、「僕より朝日ジャーナルの編集部にいる友人が適任でしょう」といわれて、当時、副編集長だった、岩城元(はじむ)さんを紹介していただいたのだ。

リベラル硬派の岩城さんは、拙著を書評に取り上げてくださった後、お酒がメチャ強いこともあって、渋谷の店に、即、御来店。キャサリン・ヘップバーンの「手の皺に美しさを感じます」などと、ユニークなことをいいつつ、ジャーナル誌面でも、艶笑エッセイを書かせてくださる。

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その際、私のペンネームは、“岩菜うに”とした。(友人の一部は、私のことを、今も“うにちゃん”と読んでいる。由来・略)すると「この、うにってのに会わせろ」と、当時の編集長だった筑紫哲也さんが御来店。筑紫さんは拙著も購入してくださり、店がハネた後は、編集部の方々と一緒に、はしご酒。

「きみ、なんで、うになの?」「これから、何を書きたいの?」………以後 誌面で、“元気印の女たち”のシリーズをはじめた筑紫さんとは、パーティ会場でのバッタリも多々あって、奇妙なジャンプを続ける“うに”のことも、楽しく励ましてくださる。そして私は、せめてものお返しにと、経営者になった後々までも、店で発行した新聞を、毎月、筑紫事務所に送り続けたのである…(御冥福を祈ります)

筑紫さんの麻雀仲間でもあった岩城さんは、その後経済部に移動。学芸部ならともかく、もう縁切れね…と思っていたら、今度は「店の景色を織り交ぜながら、サラリーマンを励ますコラムを書いてください」といわれて、なんと、夕刊紙上で、週一連載をいただいてしまう。

(つい数年前まで、修道院で泣いていたのに…)


人生、何がおこるかわからない。店をもつこと、失うこと、人と会うこと、別れること。試練と恵みはセットでくるものだが、神様は、誰に対しても思いもかけない明日を用意していてくださるのだから、自身の明日を決めつけず、「これは!」と思ったことはやり続けるのが正解!

なんてことを思うようになったのは、つい最近で、深海魚が急浮上したような当時は、《日々の奇跡》に、ただアップアップ。

全国紙とあって、さすがに「うに」はやめて「彩子」にしよう。しかし「サイコ」「サエコ」と読み違いも多く、街の名を入れれば「らしくなる」といわれ、結局、コラム用の筆名は“渋谷・あやこ”になってしまう。

なのに連載が続くにつれて「渋谷さん」と呼ばれるようになり、いつしか私の公式名は、「中黒」が消えて、“渋谷あやこ”になってしまう!

バブル時代だった。

Pict00153_5 こんなことがいつまでも続くわけがないと思いながらも、店にいた女の子たち全員が、お客様から、夜毎、チップやタクシー券をもらっていた。

酔客の戯言ではあるが、不動産屋のおじいちゃんから、TV番組のような台詞もきかされた。

「わしとつきあってくれたら、マンション買ってやる」

(は?)・・・・・・・・・・(この種の誘いに乗れる女だったら、こんな苦労はしていません)

Fire_rainbow

並行して、コラムは一年間連載され、朝日の経済部や外報部の方々が、どっと来店してくださり、店の二階が抜けるのでは?という時もあった。しかもこの時期、御縁をいただいたジャーナリストの方々は、朝日系列だけではなかったのだ………… 某日、岩城さんから、「いい店がありますから」とお声をかけていただき、新宿警察の近くにある、《サツまわり》専門の記者たちが集う店を訪ねたところ、なんと、その店で、かつて読売新聞社におられた、ノンフィクション作家の、故・本田靖春さんとお会いできたのである!

本田作品の大ファンでもあった私は、さすがに緊張。しかしお酒の力にも助けられ、隣りあわせた本田さんから、正座するような気持ちで、貴重なお話を多々うかがう。

しばらく後、また行ったら、今度は店のママが(いつも、お花や食べ物を、どっさりお土産で持たせてくれた英(はなぶさ)のママ、ありがとう!)前回プレゼントした拙著を、本田さんに差しあげたと聞き、大々恐縮!

そして今度は本田さんが、もったいなくも、大阪読売新聞社の編集局次長として名を馳せ、その後、独立された、ジャーナリストの鑑、故・黒田清さんを紹介してくださったのである!

後年、筑紫さんの番組にも度々出演されていた黒田さんは、徹底した知と情の方だった。“えーしのボン”の名残のある、鋭く、あたたかーい方だった。


「あやちゃん、がんばりィや。けど、ボチボチな」

と、絶妙な励ましをくださり、書き続けるよういわれ、御馳走になったこと数知れず…

でも…(筑紫さんも含めて)御三人とも、もう故人なのね…世間的には、大先生というべき方々なのだが、どなたも権威主義とはほど遠く、生活感ゼロの、冴えたお兄ちゃん・おとーちゃんといいたいような、ステキな方々だった。そして御三人によくしていただいた私も、ン歳になってしまったのだが、心から感謝していいたい。「私、あまりにボチボチですが、なんとかやっています」

Kwl_001_2 ※ちなみに、大恩人の一人である、岩城さんはお元気で、リタイアされた現在、中国の桂林で、“東方語言塾”という、語学学校を経営しておられる。(中国語・韓国語・日本語)御興味のある方は、岩城さんの以下のブログを参照のほどを!

http://d.hatena.ne.jp/nan-no

見るもの聞くもの、びっくりの連続だった渋谷バイト時代は、都合4年間続いた。(店は立ち退きで消えた)処女作を刊行すると同時に、かくも多くのジャーナリストの方々にお会いできたことは、幸いとしかいいようがなく、この時期、私は、社会に対する視点の「基礎」が、築かれたのだと思っている。

加えて、朝刊を開いて署名記事を読み、「昨夜のお客様だ!」という喜びをいただくだけでなく、取材方法や裏話、役所の実態や、スクープ記事等、新聞表現にまつわる様々なエピソードを聞かせていただいたおかげで、(私も書くぞ)という思いを、持ち続けることができたのだとも。

そういえば…本田さんがいわれたな。「昔はfaxもなくて、新聞社の屋上に鳩をかっていたんだよ

私は無意識のうち、私なりの表現方法を探り、大先輩諸氏にお会いする度、鳩が豆鉄砲をくらったような顔で、社会人夜間大学(!)の深夜講座で、学び続けたのだ。

そして思う。かくも素晴らしい夜大の先生たちにお会いしたのに、我が刊行物の少なさたるや…


筑紫さんの訃報をきいて、「しまった」と思ったのは、さらなる作品を、お届けすることができなくなってしまったからだ。より私らしい、より深い作品を送りたいと思いつつ……ということで、突然ですが、開拓編はこれでおしまい。お世話になった方は、他にもたくさーんいますが、ゴメンナサイをいって、今後、ブログは「ぼちぼちモード」にきりかえ、来月またね!

いきなり祈る。

神様、すばらしい出会いを、かつても、今も与えてくださり、ありがとうございます。

どうか私が、いただいた学びの“すべてを”生かし、あなたによるところの「真の物語」を書き抜くことができますよう、お導きください。そしてその物語に出会う私自身と多くの方々が、《分離ではなく一致》の喜びに導かれますよう、愚かなものの手の技を祝してください。

というわけで、またしてもの深海へ。時がよくても悪くても、書きまっせ!



※第二章・了

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2008年11月 6日 (木)

渋谷・開拓編(3)

こうして私は渋谷の夜に生きるようになった。041021kissfromheven

店にやってくる客は十人十色。思い込みの激しい方もいれば、早とちりの方もいた。熱い方もいた。冷たい方もいた。席につくと、必ずコースターを裏返す方もいた。「どうして?」と聞くと、

「こうすれば注目されるだろうと思って」

涙ぐましい方もいた。

女の子は常時5、6人いたが、やってくる皆さん、ここは紳士の社交場、会話を楽しむ場と心得つつも、そこはそれ、ホノカナ(あわよくば)もあり、話がはずんでくると、

「今度、飯でもどう?」

なんてお声をかけてくださる方も、チラホラいたりして。

※ちなみに、私が働いた三店には、すべてカラオケがなかった。歌は結構好きのクチだが、人との会話に醍醐味を感じていたからである。

人は他者を求めずにはいられない。それが友愛(フィリア)に向かうか、恋情(エロス)に向かうかはケースバイ、ケースで、様々な想いがとびかう“言葉の道場”では、

ねちねちクネクネ、女の子とつきあったことありませんというような男の子が、よそ見しながら、どこかで聞いたような台詞で口説いてきたこともあった。そんな時、私は、

「目を見て話して!自分の言葉で口説いて!」897436b5b145df0bbb38l

と、キツイダメだしを入れ、

「仕事でもなんでも、本気で相手と関わりたいなら、面と向かっていわなきゃだめよ」

などと、お客様を前にして、失礼スレスレのオネーサン風を吹かせていたのである。

もちろん(皆様の名誉のためにいっておくが)御来店いただいたすべての方が、「それ系」に走ったわけではない。

この時代のお客様とのエピソードを語れば、ブログがいくらあっても足りないが、お世話になった方々のうち、ごく一部の方だけ、以下に御紹介しよう。


当時、パルコが出していた雑誌、《アクロス》の編集長氏が、常連だった。

知性と感性の感度抜群の彼は、話していて飽きない人だったが、ブレーンタイプの地味な風情もあり、私は彼に、“ジミー”というニックネームをあげたのだ。

ジミーは、せっせと通ってくれたものの、口説き系に走ることは皆無だった。男たちは、一時、会社や家庭から離れ、野原で遊ぶ少年のように店にやってくるのものだが、中には、帰ってゆく世界を忘れて、夕暮れの野原にしがみついているような人もいた。しかしジミーには、それが見えなかった。

類を見ないタイプの客を前にした私は、ある時、彼に聞いた。


「糖尿病?」


へな~っとした、彼のあの苦笑は、生涯忘れることができないが、ま、話してて楽しいんだし、手間がかからない分、いっか。

もしかするとジミーは、過去、女性がらみで苦い学習をしてきたのかもしれない…定かではないが、人と人をひきあわせることで生まれる化学反応を楽しんでいるような彼は、冴えた触媒みたいな人でもあった。彼は独占欲ギラギラになることなく、(おもしろい子がいるよ)というように、いろんな人を連れてきてくれたのである。

842view002 某日、ジミーが朝日新聞社社会部にいた友人記者と、御来店。

こちらも優秀かつチャーミングな人だったが、仕事柄、常時多忙で、携帯のなかった時代、店の公衆電話に走っては、中座につぐ中座。私は彼に“ハリー”という名前をあげた。

するとジミーが、私にも名前をつけようといい、「ま行じゃないよな」と。

(は?)

「マリーとか、リリアンとか、マーガレットじゃなくて…か行だよな」と。

で、私はキャサリンになってしまい、いやー、昼の名や役職名を取っ払ってしまうと、人間、こんなに楽になるのね~

客であり友。ジミー&ハリーと一緒にいる時の私の気分は、例えていえば、往年の名作映画、“明日に向かって撃て”の、キャサリン・ロスだったのである!

私たちは、よく飲み、よく話し、よく笑った。社会問題や政治問題等、マジな話もしたが、そのほとんどは、他愛もない話だった。


ある時、ハリーにいった。「ね、知ってる?キャサリンはフランス語で、カトリーヌなのよ」

Deneuve01 フランスの女優、ドヌーブが好きだった私は、超あつかましくも、それ風を気取りたかったのだが、横からジミーがいった。

「違う違う、そういうんじゃなくて、《キャサリン台風》だろ?」(という名の台風が、かつて荒れ狂ったと)

また、ハリーは、とらえどころのない女と思ったのか、ジミーにこんな質問もしたそうだ。


「な、キャサリンって、バカだと思う?利口だと思う?」



ぎゃふっ!

※私は何も、正体を隠していたわけではない。ただ私のココロ深くに抱えていた世界を説明するのは、誰であれ困難に思え、店という劇場で、折々の私を見せていただけのことなのである。

「バカか利口か?」彼らは、その答を今もって出していないようだが、私の方は、彼らのことをこう思っている。

ジミー&ハリーは、青春がないも同然だった私への、神様からのプレゼントのひとつだったのだと…




以来、幾星霜。ジミーとは、とんと御無沙汰だが、某社社長におさまった初老のハリーに、

「元気?キャサリンだよ」

と久々の電話をいれると、哀しいかな、一瞬、ハリーは言葉をなくし、しばしのち、こういったのだ。



「俺…なんだっけ?」




・冒頭のカクテルは《キス・フロム・ヘブン》

ブランデー20ml・ドランブイ20ml・ドライベルモット20mlをシェイクし、冷やしたグラスにどうぞ。

※続く。

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2008年10月25日 (土)

渋谷・開拓編(2)

   店で働くことを決めたあと、マスターに聞かれた。Bb

    「名前はどうするね?」

    その瞬間、私は躍った。

    (嘘ついていいんだ!)

           → photo by  Inomata  Norihisa

本シリーズの“思春期編”でも書いたが、私は郷里がイヤで飛び出してきた身ゆえ、長く、別人になることを夢見ていたのである。

彩子にしてください。色彩の彩で、あやこに!」


それまでのモノクロ人生を空揚げにし、色彩豊かな人生をやりかった。その機会が飛び込んできたことを知った私は、震える足でカウンターに入り、マスターやバーテンさんを通じで、客に挨拶をする。

「今日から入った子で、彩子といいます」

「はじめまして。よろしくお願いします」

品定めするような男たちの視線の中、ぎこちない笑顔をみせたのが、つい昨日のことのよう…

そうだ。名前に関して、もうひとつ。ぶんぶんるうむ。

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奇妙な店名の由来は、ヨットを持っていたマスターが教えてくれた。いわく、ヨットにはBoomという小部屋があり、『Boom Boom Room』をもじったとのこと。

へー

ちなみに三人いたバーテンダーは船のクルーでもあり、店には「海」がらみの客も多かった。他、入院中で一度も会うことのなかったママの名前が文枝さんといって、《ぶんちゃん》というニックネームだったとか。

ほー

なんであれ、バイト嬢には縁なき話。と思って通った店だったが、流れていた潮流や客層は思いのほか豊かで、我が情報量は俄かに増大する。

貿易商もいた。NHKが近いこともあって、番組制作のディレクター特派員もいた。画家もいた。学者もいた。編集者もいた。

観世能楽堂の帰路に寄ってくださった、能や謡の先生もいた。サラリーマンもいた。釣りキチもいた。もとホテルマンだったマスターとママが英語が堪能だったこともあって、外人客も多かった。

そして私は、それまで読み漁っていた本の知識や、看護の世界で学んだ人との接し方を活かせる場が与えられたことを知って、本領発揮。好奇心全開で「なぜ?「どうして?」を繰り返し、お客様たちから教えていただく様々な分野の話を吸収し、水を得た魚のようになる。

ある時、牧師客が多い不思議を訊ねたところ、バーテンダーが教えてくれた。

なんと、店のママはクリスチャンで、(英国国教会・アングリカン・チャーチ所属)マスターのヨットの名前は、ママの洗礼名からとった、《アグネス号》であるとのこと。

そして私は会話すら交わすことのできなかった、この「アグネス・ママ」を、今もって、魂の姉の一人として、敬愛してやまない。

彼女が御主人であるマスターと共に、店を開いてくれなかったら、私の受洗はなかったと思うからである。



余談になるが、以下は拙著にも書いたことだが、私は付添婦生活の間、短い結婚生活も経験している。

「この世ならぬ美しいものをみたい!」と思っていた私は、その後、美術愛好家で、コレクターでもあった夫と暮らしはじめたのだが、その暮らしに空しさを覚え、離婚直前、悩んだ末に、某修道院も訪ねている。Mother03a

※ちなみに、マザーテレサの活動にも憧れていた私は、これからは祈りと行動の生活をしたいと思っていた。そしてできうることならシスターになり、マザーの映画をつくりたい、などと、とんでもないことを考えていたのである。

青春は愚考の連続で、お恥ずかしいことしきり。アホちゃうかと笑われること必至ではあるが、私なりに贋作ではない、本物の道を模索し続けた結果である。

24歳の私は、飛び込んだ修道院の御堂で、まずは落涙。ただならぬ様子に気づいたのか、一人のシスターがやってきて、別室で、お茶とお菓子で慰めてくれた。そして一息ついた後、彼女にいった。

「私、シスターになりたいんです!」

返事は極めて明快だった。

純潔なる乙女でなければ、なれません」

(……)




後になって知りえたことだが、修道会でいう「純潔」とは、《未契約》という意味である。神の花嫁になるためには、この世での結婚入籍を経験していない女性でなければいけない、ということなのだが、そんな基本的な知識さえ知らず、私は修道院を訪ねたのだ。

土足で入ってはいけない世界がある…同時に、純潔=処女と理解した私は、さらなるショックを受ける。

(私は不純だから、神様のために働くことはできないの…?)

シスターは、結婚生活をやり直すように諭してくれた。彼女のお気持ちや心使いには、心から感謝したものの、結婚生活を知らない人からの言葉は、正直言って、響くものは感じられなかった。そして思ったのだ。

(どこかに“巷のシスタ”ーはいないのか?)

神様のことも、世間のことにも通じている、姉のような、友のような人がいたら、どんなに心強いだろう…



前置きが長くなったが、私は、求めていたその人を、「アグネス・ママ」に見たのである。

ママ伝説は、多々あった。飲み代の払えない絵描きには、持っていた「絵」でよしとした。若い客には、折々、出世払いも受け入れた(男たちも飲み逃げをせず、後年、店に客を連れて帰ってきたという、いい時代だった)

赤旗を振ってアジっていた青年たちを、二階に匿った。客のひいた閉店間際、店で賛美歌を歌うこともあった。女の子たちへの教育は厳しく、晩年、病床では英書と聖書を離さなかった等々、スカッと爽快な知性派の姿を思い浮かべるたび、私は、あぁ、このママの下で修行したかった!と、何度も何度も思ったのである。

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結局、地上でママと会えたのは、教会での告別式だった。

(はじめまして)

棺の中に横たわる、聡明な童女のようなその人に向かって、呼びかけた。

(お疲れ様でした)

その時、私は処女作を上梓した直後だった。そしてこの世での仕事を見事に果たし終えたママを見たあの瞬間、僭越ながら、私は、ママからの霊的なバトンを受け取ったのかもしれない。花に埋もれたその人を見ながら、強く思ったのだ。


(あなたに習いたい!)



※続く。

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2008年10月23日 (木)

渋谷・開拓編(1)

Photo ハタと思い立ち、すっかり忘れていた、お約束の連載ものの《第二章》をupすることにした。

私が夜の世界に飛び込んだのは、大昔…んなこと今さら…と躊躇する気持ちが、なきにしもあらずだが、そこにこだわりすぎるのも大人気ない。

というか、私にとって「水商売」は、過ぎてきた景色のうちの一コマでしかないのだが、今もって“それだけ”をいいたてる人がいて、いささか辟易していたこともあって。

あれこれいわれるくらいなら、自分で語ろう。

ってなこと思い、社会見学もかねた、自叙伝風の情報開示に踏み切った次第である。

それでは秋の夜長、珍しく水割りなんぞを片手に、ほろ酔い船に乗ることにしよう。ゆきつく先の港はどこ?風まかせ、波まかせの帆をあげて、今を去ることン年前…


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

むかし、むかし、渋谷のハチ公口から歩くこと十五分。音に聞こえたセンター街を、ずずーっと進んだその先に、女の細腰のような柳の木が立っていた。俗にいう見返り柳だが、さらなる昔を知る人に聞けば、

「僕らの若い頃は、川沿いに、ずらずらっと、並んでいたんだけどね」

とのこと。今では暗渠になり、消された流れは見る影もないのだが、その名を街に残す宇田川のほとりには、かつては女の眉のような葉を持つ緑が繁り、赤い灯、青い灯、水に映して揺れたという…

なんだか時代小説のような書き出しになってしまったが、この柳の先にあったのが(今では影も形もない)《栄楽街》なる盛り場だった。

近くには、パルコ、クワトロ、NHK。老舗の東急百貨店や、ハンズも近く、様々な企業ビルが居並ぶ中、なぜかそこだけ空が広い。ざっくり切り取られた闇の下には、昭和の気分を色濃く残す「村」のような一角があり、そこに二十軒ほどの店が、ずらずらっと、軒を並べて建っていた。

そしてその「村」のどん詰まりにあったのが、渋谷で営業すること20数年という、おやっと瀟洒なバー、《ぶんぶんるうむ》だった。

Cocktail

当時の私は、二十代の後半だった。4年間に渡る病人介護の生活をした身とあって、今度は“生きている人間”と話してみたいと思っていた。

(患者も、酔客も、似たようなものだろう)

若さゆえの怖いもの知らずというか、人様の世話と会話の相手をしてきた私は、オソロシイことに、病院もバーも同じ癒し系、大差ない世界と思っていたのである。

で、新規の勤め先に望んだことは、<会話主体でカラオケがないこと。カウンターがあること>この二点だった。

とはいえ、どこを探したらいいの?母の従兄弟が自由が丘に住んでいたことを思い出し、ダメもとで電話をすると、

「だったら僕の同級生がやってる店があるから」となり、まずは下見とあいなった。

当たり前の事だが、夜の渋谷はネオンがいっぱい!ほとんど遊園地の子ども状態だった私は(今度は、この街で生きることになるかも?)とコーフンして柳の前を通り過ぎ、次いで、不思議な店名を持つ、店の前へと辿りつく。

扉の横には、夏椿の木が立っていた。

“物語”の予感を覚える、いー感じの佇まいである。そして扉を押し開けた途端、

Rock「いらっしゃいませ!」

女の子たちの声と同時に、 S字カーブの黒いカウンターが飛び込んできた。入り口脇には、目隠しも兼ねた銅と真鍮製の、いけてるオブジェがあり、壁にはローマ在住の画家、高橋修のリトグラフがかかっていた。

※当時の私は、水商売に関してはまったく無知だったが、店の品格は、《経営者の顔とインテリアをみればわかる》などと、不遜なことを思っていた。

スロウなジャズが流れる店にはカラオケがなく、2Fにはボックス席もあるとのこと。そして現れたマスターは銀髪、日焼け顔で、脇にはシャキッと寡黙なバーテンダー、見え隠れする厨房には、坊やといいたいような、サブの男の子たちが二人いて、

びしっとアイロンのかかったワイシャツ+ベスト姿の彼らは、きびきび働き、さらに、カウンター越しに接客中の、女の子たちの立ち居振る舞いを見た私は…

(ここだっ!)


と一発確信!数日後(他店を一軒もみずに)面接用に再訪問したその夜から、カウンターの内側に立つ身となってしまったのである。


※続く。

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2008年7月12日 (土)

番外編

Choko

先日、ハトコが1歳の子供をつれて、拙宅にやってきた。そこで再び記憶の淵に…

赤ちゃんがお腹にいる時におこるつわりには(私は未経験)いろいろあるが、みかんやレモン等の柑橘系に走ったり、御飯を炊く時の臭いに、ウップを繰り返すのが一般的のようである。だが、私を身ごもった際、母はチョコレートに走ったとのこと。

明治、森永、ハーシー等、産み月近くまで食べ続けたそうで、ためにか子供の頃、私はエラク黒かった。

かつてはそれも重荷のひとつだったが、いろいろへてきた今は、不思議なつわりにも感謝してやまない。というのは…


神様
は、生まれた瞬間からはじまる私の闘いを見越して、もろもろ越えてゆけるよう、母経由で、カカオパワーを注いでくれた…と思っていることがひとつと、私自身、奇譚(不思議な物語)を愛してきたからである。

奇譚だらけの血族の思い出をどうするかは模様眺めだが、今、手がけている原稿とも響きあう部分があるため、今回は(自身を鼓舞するためにも)お見苦しいことを承知で、一部を書かせていただいた。


同時に、これまで背負ってきた「私像」を、壊したかった気持ちが、なきにしもあらず。

私は過去、様々な方から、様々な形容をいただいてきた。


「巫女」「縄文人」「金星人」「シティシャーマン」「ニューハーフ」「故郷」「ミューズ」「辺境系」「愛の教師」「産婆」「渡し守」「絶滅危惧種」「リゾーム」(地下茎。はじまりも、終わりも、中心もなく、偏在して相互に絡み合うもの。哲学用語)

閉店後もさらなる誤解は続いており、偏見による暴言をもらうかと思えば、あまりに畏れ多いことながら、「マリア様」と呼ばれ、卒倒しそうになったこともあった。

いくら奇譚好きでも、この種の誤解は…と思っていたところに「秘密を知りたい」といわれた方もいて、もろもろ鑑み、公開に踏み切った次第である。


各方面からの誤解が解けたかどうかは疑問だが、長く背負ってきたものを、くるん、と丸めて降ろした気持ちは、存外、軽い。

私は私。心や体の病気もしてきたし、アホも多々やってきた。多くの人と同じように、与えられた場で学びながら、私にとってのを求め、模索してきただけのことである(あの闇を越えてある私自身は、キリストに救われた野の花一輪、光の子だと思っている)


ハタ!光という言葉がでたところでキウイとの響きあいを以下に。

(は?)

私は、キウイの断面を見ると感動してしまう。そこに神様によってつくられたものの本質を感じるからだろうか。人間を含めたすべての生き物の、《真の姿》は、こうなんじゃない?きっと、みんな、こんな感じのでできているんだよ。と、食べる前、いつも尊くうれしい気持ちになってしまう。(かつては食を恐れていたのに!)

Kiui

私のこの変化自体、奇跡でなくて、なんだろう!

当たり前と思っている日常の中にも、奇跡は隠れている。そして愛(アガペー)の実であるところの奇跡を見てゆくことさえできれば、状況の如何を越えて、人生ピカピカなんだよね~

え、わからない?

だったら、ともかく今、私がおいしく御飯を食べていて、屈託なく笑えているということだけ、わかっていてね。

Tuyu

というわけで、思春期編はおしまい。私の「すべての基礎」を造ってくれたといっていい時期について語れたことや、あの時期を飾ってあげられたことは、幸せでした。

他、母との和解や、長く抱えていた怒りが大きな愛によって変えられていった過程については、いつか書かせていただくかもしれないけど、長文シリーズはこれきりにしたい(笑)

(注・私が喜怒哀楽をなくしたわけじゃない。友の助けや真理によって物事が解明され、少しづつコントロールできるようになってきたってこと。派生する感情から目をそらさず、溜め込まず、自他の内にある光を見てゆくことで、喜びが増してきたって感じ)

皆さん、ヘビーな話におつきあいくださり、どうもありがとう!


※俄かに多忙。今後は9月初旬までは二週間に一度、なんてのも混ぜながら、気まぐれup。あの過去があったからこれが書けるというような、きつくて素晴らしいテーマを追ってるの。学びは続く。カカオパワーで集中よ。

※おまけ。聖フランチェスコに関する映画は、『神の道化師フランチェスコ』(ロベルト・ロッセリーニ監督)っていう、モノクロの素晴らしいものもある。乞食坊主みたいな若き修道士たちが内的な喜びに満たされて、土砂降りの中ではしゃぎまわるシーン等、まぶしいの。(DVDもあるかな?)パゾリーニの『奇跡の丘』もオススメで…あーこんな話をしてるときりがない。がまん、がまん。


梅雨明もじきですね。皆さん、どうかお元気で!

photo by mituhiko imamori 

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2008年7月 4日 (金)

光の踏み石編(5)

Peach001_2 という私が《秋葉原事件》を起こさなかったのは、なぜだろう?

早計にはいえないが、もしかすると、私の場合、父の教育のおかげもあったかもしれない。早逝した父に関しては処女作に詳しいが、

「共産主義ってなに?」と質問すると、「目の前にごちそうがあっても、おなかが空いた人のそばでは、一人で食べられないっていう気持ちのことだ」

などと答えてくれた人だった。叱られたこともあったが、私の中のよきものを見て、きちんと評価もしてくれた。ある時、ちょっとしたご褒美で、姉弟の前で、缶詰のを、一切れ余計にもらったことがあった。

どこかの“お取り寄せスイーツ”ではなく、シロップ漬けの単なる桃である。そんな桃ではあるけれど、その桃は、数十年へた今なお甘く、私は、桃一切れ踏みとどまる何かもある…ように思っている。

他にも支えてくれたものは幾つかあるが、そちらは母がらみで、つまりは、に向かうきっかけも母なら、に向かうきっかけも母だった。

4歳の冬、私は母に連れられて町の教会をたずねている。その際、牧師のお姉さんである、《みぎわさん》という名の、精薄の人と一緒に遊んでいるのだが、マシュマロのような彼女との無垢なる時間も、もしかすると支えになってくれたのかもしれない。(※ちなみに、後年、開いた店の名前は、彼女の名前からの引用である)

Muku

桃にマシュマロと続いた後は…

12歳の冬、父が死んだ年の、クリスマス・イブのことだった。前述の牧師が、キャロリングの途中、信徒の人たちと共に、我が家に寄ってくれたことがあった(※教会とはそれきりだったが、牧師は母の不遇を覚えていてくれたのだろう)

突然の来客を迎えた母は、その頃、方位学に凝っていて、「玄関は鬼門の方角だから、使わないで」というのが口癖だった。

私は「キモン」がなんのことなのか、わからなかったが、その言葉の響きは嫌っていた。また上がり框が高くて使いにくいこともあって、私たちは出入りの際、勝手口を使うようになっていたのである。

だが、悪いはずのその方角から、突然、闇を蹴破るような歌が飛び込んできた。

            
            ♪ もろびと こぞりて むかえまつれ ひさしく まちにし

               しゅはきませり しゅはきませり しゅは しゅは きませり


はじめて聞く歌だった。歌詞はもちろん、シュワ、シュワ、泡がはじけような言葉の意味も、何ひとつとしてわからなかった。だがその歌には圧倒されるような何かがあり、(いったいこれは…)

母は怖れていたはずの玄関で、有り難そうにかしこまっていた。そして私は母の背中ごしに目を丸くし、世の中には、母の歌う歌とは違う、まぶしい歌というものがある…と知らされたのである。

歌はさらなる光を呼び込んでくれた。

17歳。摂食障害がひどくなってしまった私は、当時、奇妙なほどの頑なさで(自分は17歳まで生きないだろう)と思うようになっていた。同級生たちが将来を夢見て進路を考え始める頃、死刑台のエレベーターに乗っていたような私は、鬱々と日々を過ごしていたのだが、

Fある夜のこと、例によっての儀式を終えたあと、青い亡霊のような私が、誰もいない居間にポツンと座る。いつもなら部屋に戻って本を読むか、眠るのに、その夜はなぜかTVをつけた。その途端、


イタリア
に生まれた聖フランチェスコの若き日を描いた映画、『ブラザーサン・シスタームーン』がはじまったのである。

内容に関しては省かせていただくが、私にとっては号泣という言葉の意味をはじめて知った夜になった。

一瞬ではあったが、抱えていた棘が抜け、心の中に、忘れていた清々しいなにかが、吹き抜けてゆくのがわかったのだ…

そしてこれを限りにピカピカの人生がはじまった…わけではなかった。映画に感動して、教会に通い始めたということもなかった。母も私も相変わらずで、周囲にそうした習慣を持つ人がいなかったためでもあるが、聖書を知らなかった私は、私にとっての《尊く美しいもの》をさらに探求したいという気持ちがつのっていったのである。

17歳の峠を越えた私は、二年間という約束で東京に出る。6畳間に姉と二人で暮らしながら、画廊や美術館巡りを続ける。並行して読書ノートや美術評論のようなものを書き溜めてカトリック作家の本を読みふけり、少しづつ聖書の世界が近づいてくる。

19歳。高校時代の同級生の女の子、石神ひとみちゃん脳内出血で逝く。

先生になりたいといって静大の教育学部にいた子だが、とても可愛らしくて素朴であたたかい、農家の子だった。「新井さん、いつか家においでよ。柿も栗も桃の木もあるよ」

そういってくれたのに、照れくさくて、「いつかね」とだけいって、訪れることはないままだった。(どうしてひとみちゃんが死んで、私が生きているんだ!)

苦しみの中から絵本が生まれた。私の幻の処女作“忘れていた音”である。(誰にも見せなかった)

21歳。アルバイトでの貯金をはたいた私は(当時の体重は40㎏/163cm)はじめての海外、イタリアに行くのだが、その旅で、決定的に変えられてしまう…

処女作では数行触れただけだが、帰国後に見た家の壁の白さは、今も忘れることができない。

        「おかあさん…壁、塗りかえたの?なんだか白いね…」

        「なんにも手をいれてないわよ」

        「そう?そうなの…なんだか白い、白い、まぶしいね…」


それまで、真っ黒としか思えなかった家の中が、輝いてみえた。旅の間、強力な浄化が起こったのか、泣きっぱなしで、空っぽになった心に(もとからあった)が現れたのだろう。悪霊の棲家のように思っていた家が、まぶしくてならなかった。世界が闇だったのではなく、私の心が闇だったのか?Dl

 
 《 あなたの内なる目が、あなたの外なる景色を決める 》

そのに導かれるように、宣言する。

「おかあさん、私、付添婦になるよ」

喜びにあふれていう。

「これまで私は人にねだってばかりいた嫌な子だったけど、これからは私の持っている何かを、少しでもいいから人にあげたい。私、付添婦になるよ」

(これを打っている今、身がすくむような思いだが、その時は真底そう思ったので、まぶしい言葉を、あえて記しておく)

一年前、祖父が認知症で入院した際、付き添った経験も下地にあった。だが私が美術方面に進むとばかり思っていた母は、卒倒しそうに驚いていう。

「なぜ、それが付き添い婦なの!」

そうだ。母は私のジャンプを占うことはできなかった。しかしそのことはいわず、摂食障害のこともいわず、「おじいちゃんの時にできたから」とだけいう。


※祖父の介護を親戚は嫌っていたが、私には不思議に思えてならなかった。闇との闘いのさなかにあった私にとって、オムツの処理や尿瓶を扱うことは問題ではなく、それどころか、病院の規律に守られたのか、過食や拒食の衝動も起こらず、祖父の横で集中して本を読み、ノートを取れたことが、うれしいとさえ思ったのである。

確かに…祖父の姿は変わり果てていた。「こんなお父さんの姿は見るのは耐えられない」といって、看護を拒んだ叔母もいたが、いつか自分もそうなるかもしれないではないか。そう思えば、蝶ネクタイボルサリーノを愛していた祖父の口ぶりが、赤ん坊か狂人のようなものに変わったとしても、私は憐れにこそ思え、おぞましいとは思わなかった。

人間はああもなりうる、こうもなりうる。変転するなる世界は、“ただそのようにある”だけのもので、尊いのは、人間を人間であらしめている不変の源ではないだろうか。

その源が露わになってくるのは、この世界が価値をおいている可視のものが壊れてきた時であり、その意味では、祖父の極限の姿を見続けていた私は、この時期、世にふたつとない、“特別の絵”を見ていたのかもしれない。

という、近年考えるようになった諸々がわかっていたはずもなく…それでも(当時の私にとっての)病院は、私を守ってくれる場であると同時に、生きている絵を見ることができる美術館であり、医師や看護師等、様々な人間を書き記した、生きている本を読むことのできる図書館と見ていたことは確かだろう…


話がそれてしまったが、数日後、私の意志が固いと見て取った母が、音をあげていう。Kako

「そんなにいうなら…やってごらん」

チリチリ燃えていた導火線がダイナマイトに至り、不思議な爆発を見せた瞬間だった。死んだのは誰だ?誰でもない、古い私が死に、新しい私が生まれた瞬間だった!

救ってくれたのは誰だったのか、明確にはわからないままだった(今はわかっている)母でなかったことは確かだが、母は私に特別な物語を与えてくれ、支えてくれたのだ。だから、時がきた今、こういおう。

摂食障害があっても、いいじゃないか。それを気にするあまり、うずくまってしまうのではなく、吐こうが泣こうが、ともかく前に進もう!

こうして私は、世が世であれば、いつそうなってもおかしくなかったはずの、家庭内暴力や、非行や、援助交際や、薬物中毒には染まらず、きわどいカーブをきって思春期を終える。



闇の中
には、《光の踏み石》が置かれていた。(形は違っても、この石はすべての人の中に置かれていると信じている。闇に苦しんでいる人がいたら、思い巡らしてほしい)

危なっかしい足取りではあったが、その石伝いに歩きはじめた私は、病を持つ看護者になる。

そして年月が流れ…


多くの患者さんを看護していた私の摂食障害は、一週間に一度、ふた月に一度、半年に一度と、潮が引いたように消えてゆき…やがて、不思議なめぐり合わせで出会った編集者から、青春記を書くよう依頼されると、生涯住むことになると思っていた「忌まわしき王国」は、やってきたはずのどこかに消えてゆき、あとには本だけが残されたのである。




第一章・了

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2008年6月26日 (木)

光の踏み石編(4)

それやこれやで、思春期に入った私は、自身の存在価値に不安を覚えるようになる。

「かんじんなことは目にはみえない」Pp0001

その頃、もし、この言葉を残してくれた星の王子様が、そばにいてくれたら、

「心が渇いていたからだね」といって、母と私の心の井戸から、水を汲みあげてくれたかもしれないが、残念なことに、砂漠に隠された井戸のような王子様の存在自体、私たちの目に映ることはないままだった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

奨学金を得た姉がアメリカに留学した頃から、私は、母のつくる食事を拒むようになってしまう。当初の気持ちとしては「きれいになりたい」それ自体は、別に問題のない感情だった。

問題は、(私がとびきりブスだったかどうかではなく)母から誉められたことがなく、母が日々、強い恐れを抱えていたという点にあった。

Kagayaki1 子供は、親の空気を察知するものだ。親が何をみているのか、何に興味をもっているのか、それとなく観察し、親の視野の中に自分が入っていること=守られていることを確認することで、安心して個性を発揮できるようになる。

「あなたを評価しているよ」その確認さえできれば、会話がなくても、親子はうまくやってゆけるのではないだろうか?もちろん、教育にも“絶対”という言葉はありえないが、

私の場合、母の視線が自分にきていないという思いが強かった。ゆえに、きれいになって、周囲から「価値あるものに見られたい」と願いはじめたのである。

この世界は、様々な恐れを煽ることでも成り立っている。小さくは(特に男性?)養毛剤カツラの分野があり、大きくは仮想敵国脅威があり、各分野、それぞれの商品を購入するわけだが、私の場合、マスコミが煽る、【きれい=スリム=価値】の公式にはめられしまい、食の無駄使いをはじめてしまう。

怨念の家に生まれた不出来な娘でも、(成績は得意と不得意が極端で、そもそも学習意欲がなかった)時期がくれば男子生徒を気にするのは当然だが、こんな自分では誰も相手にしてくれないと思い込んだ私は、

(食べたものを吐いてしまえば、太らなくてすむ)と思い、14歳から、摂食障害になってしまったのだ。

深夜、空腹を覚えた私は、一人、台所に向かう。自分の家なのに泥棒のように隠れて、パンや菓子を口に押し込み、大急ぎで食べ終えた後、大量の水を飲んでトイレで吐く。                                                                                        L4687_9993_main

しかも初回、私はホッとしたのだ。(これで太らずにすむ)

その気持ちが、【吐かないと太る=愛されない】という強迫観念に取り込まれてしまうまでには、さほどの時間はかからなかった。奇妙な夜のはじまりだった。自分でしていることなのに苦しくてならず、過食と拒食を繰り返しているうち、食事そのものが、恐怖の対象になってくる。ワタシハナニヲヤッテイルンダ?


pcはもちろん、心身症
という言葉も知らなかった当時、こんなことをしているのは世界で自分だけだと思い込んだ私は己れを恥じ、不可解な行為の一切は、周囲にひた隠しにする。

(バレたらゴミ扱い)

だがバレるどころか、母は母の戦場に手一杯で、娘の戦場など気づきようもなく、結果、母娘それぞれ、戦線を拡大してしまう。

私の心の中には、懸命に働いて食事をつくってくれる母に対して、申し訳ない気持ちもあれば、恨みがましい気持ちもあった。アフリカやカンボジア難民のことを知るにつけ、自身に懲罰を与えたい気持ちもあった。

母は姉からのエア・メールを手にして、私にいったものだ。「ずっと御祈祷してもらっているから、家もだいぶ清まってきた」


(そんなことより私をみて!)
そういいたい気持ちをぐっとこらえて、「よかったね」といって、かろうじての笑みを見せる。この人に私の闇を受けとめる余裕はない。おぞましい行為のことは隠しておこう。しかし隠し続ける心の片隅には(最期には、きっと母が気づいて救い出してくれる)という気持ちもあり、チリチリ、ダイナマイトの導火線を燃やすような日々が過ぎてゆく。

(私たち双方の恐れは、どこからきたのだろう?明日災難にあったらどうしよう?ずっと愛されないままだったらどうしよう?そう思う心は、多分、肉体という人間の外側のみに価値を見ていたからだ。時間の中で滅んでゆく、外側だけ見ていたら怖くなるのは当然で、そこに防衛をはっても、みえないを太らせてゆくだけのことだ。真の解放と平安が欲しいなら…)

などという、哲学的考察ができるようになったのは、つい最近のことで…心理学的考察を試みるなら、

数年前、私は精神科医に取材する機会を得た折、摂食障害の原因についても、たずねている。その際、「簡単ですよ、母親のネグレクト(養育放棄)です」という答を得て、ふたつの悲哀を覚えたことがあった。

(やっぱり)という気持ちと(そうかもしれないけど、あなたにいわれたくない)という気持ちのふたつである。

後者の気持ちを知りえたことは、私にとって幸いだった。その気持ちの中には(だって、おかあさんは、大変だったんだから)という、母をかばう気持ちがあることを知ったからだ。私は母を(母も私を、双方が願うものとは違う)それぞれの形で愛してきた。母を困らせたくない。なんとかして姉のようになろうと思い、自身の個性を殺した娘が、自縄自縛の世界に入ってしまったというのが、(一面の)真実といえよう。


私がみつけた最初のシェルターは、図書館だった。「こうではない」世界を求めて片っ端から本を読み続け、ギボンの『ローマ帝国衰亡史』や、ホイジンガの『中世の秋』、プルタークの『英雄伝』や、世界文学全集等々、姉がアメリカにいったせいもあるのか、ヨーロッパ系に引き寄せられて過食のような過読を繰り返す。

十代の私にとって、本は気晴らしでもなければ、ましてや、教養をつけるためのものでも、さらさら、なかった。出会った一冊一冊は救命道具にも似て、生きるすべを見つけようともがく私の「命がけの友」だった。

ゲーセンにはまる今の子供たちと、さほど変わらないのかもしれない)それでも、歴史の中の偉人たちから哲学や美意識らしいものを吸収できたことは、幸いとしかいいようがなく、

Hbot2 『美術評論』や『画集』にも出会う。ダビンチ、ラファエロ、ボッティチェリの作品をみて陶然とする。

(こんな美しいものがあるなんて…)Vinchi

夜毎トイレに顔を突っ込む回数が増えてゆくにつれて、美への憧れが増してゆき、イタリアルネサンスの画家だけでなく、デューラー、ハンス・メムリンク、ファン・アイクらにも惹かれ、

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絵画も含むヨーロッパを理解するためには、ギリシャとキリスト教を知る必要があると気づき、関連図書を読みふけった私は、いずれ「聖書」も読まなくては…などと、生意気なことを考えるようになる。

家から歩いて10分のところには、海があった。だが幼い頃、溺れかけた私にとって、海は弟のように遊び戯れるためのものではなく、死のイメージを含むものだった。

太陽は、醜い自分を露にする厭わしいものに思えてならなかった。月に慰めを覚えるようになった私は、自室の部屋の扉に、「月に吠える」を書いた詩人、萩原朔太郎を思って描いた絵を貼り付け、『青猫の部屋』と称して、こもりがちになる。

海で死のうと思うが、事至らず、帰ってくる。ためらい傷だけ残す、リストカットもする。

どんどん息が浅くなる。家にもどこにも居場所がない、家出しようか?どこへ?どこにいっても一人ぼっち、茨に覆われた道しかないと思えてならかった。私の誕生時、奇怪な空気だけ残して去ったインテリ・パンクの叔父ゆえにか、必死に本にくらいつくものの、生きているだけで精一杯の気持ちがつのってゆき、

                 「高校にゆきたくない」 Fir_00009       Delphinium3

    と母にいったら、即座にいわれた。

   「みっともない!」

その返事で、抱えていた哀しみに怒りが加わる。病んだ心のまま(この人は私の命より、世間体のほうを気にしている)などと思ったのである。


補足すれば、摂食障害は先進国だけに見る病気だが、こじらせると死に至ることもある。現在では、心療内科での治療が常識だ。

私の場合、そうするしかない状況だったが、一人で格闘することは危険きわまりなく、これを読んでくださっているあなたや友人が「もし」同じ病気を抱えていたら、早く医者にゆくよう、声を大にしていいたい。

加えて、麻薬中毒患者アルコール中毒患者を「人間のクズ」と呼ぶ人もいるが、私にはできない。十年間…私がし続けたことを思うと…誰かをおとしめることなど、とてもできないし、被造物の真の価値を認識するようになった今では、彼らのにもあるを思い、ますますできない。Bird_2

ちなみに、選択を間違えたことから生じる“恥”の意識も、魂の癒しがおこると、悪い夢からさめたように消えてゆく(私も存分やったが、この意識があると、人は二重に苦しむ。人からの目線で己を責め、自身の目線で己を責める。(だからといって“厚顔無恥”という意味で使う、「恥知らず」になれといっているのではない。自身の真の価値が認められたら、不必要な防衛は消えてゆく…ということをいいたい)

等々、上記の彼らの繊細な心を思いつつ、再び過去に話を戻せば…


いやいや入った高校でも、状況に変わりはなかった。思春期のエネルギーが注がれた心の中では、静かに怒りが育ってゆき、誰も私を見てくれない!誰も私を必要としない!(と思い込んでしまった)私は、世界も価値なきものと見はじめ、危険物要注意!(こんな世界なんか、ぶっ壊れてしまえ!)と思うようになる。

(なんであれ、信じる心は強力な力を派生させる。問題は、何を信じるかだ。それによって分離と破壊の道か、平安と一致の道か、おのずと現れる世界が決まってくる)

東京では企業ビルの爆破事件が、イスラエルのテルアビブ空港では、日本赤軍による乱射事件がおこっていたその時代、上の世代がしていることを知るにつけ、半ば死んでいるような状態より、死ぬ気になれる何かにかけてみたい…などと思うようになる。

(当時の私なら、それ系の勧誘があったら、簡単についていっただろう。ド・田舎の高校生に、その種の出会いがなかったことは、感謝としかいいようがない)

本家では、病気になった祖父のもとに、新興宗教の教祖になる前の叔父がやってきて、日本刀を抜き、実印を脅し取っていった。彼にも、そうなるには、そうなるだけの理由があり、親戚一同、好ましく思える部分もあったが、私の目が開かれていなかったこともあって、金がらみの喧嘩を繰り返す彼らが人間snakeに思え、捩れた想いをさらに強化してしまう。

醜い、醜いこんな世界に、最も醜い蛆虫のような私が生きている!こんな自分にできることがあるとしたら、自殺か、発狂か、テロリストになることだ

しかし、そう思う心の底には、とびきり尊いなにかを求める気持ちもあり、闇の中にうずくまる私は、(この世ならぬ美しいものをみたい!)と、願い続けていたのだった。

 

光は闇の中で輝いている (ヨハネ福音書1-5)                 



最初の転機が訪れたのは、しばらく後のことである。Ha2

                                 

※続く

                  

                                        photo  by   mituhiko  imamori 

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2008年6月17日 (火)

光の踏み石編(3)

Moto もちろん、私と母との間には、楽しい思い出も、たくさん残っている。

→のようなことはなかったが、浴衣を縫ってもらったこともあったし、一時期、母が離れを改造して料理教室もやっていたため、子供の頃は、おいしいものも、たくさん食べさせてもらっている。

だが、それまで主だった事を決めてくれたのは、祖父や父だったのに、突然、家長になってしまった母は、押し寄せてきた様々な選択を、重荷に感じたのだろう。

土地の供養料を払うだけでは不安だったのか、今度は、易占の類に凝り始めたのだった。


母にその道を教えたのは、寺に嫁いだ叔母である。

『11月のギムナジウム』収録「小夜の縫う浴衣」より。by 萩尾望都 小学館文庫↑yominikui   gomen   kukikan   dake 

(※ちなみに母は七人姉弟の真ん中で、その内訳は、真言宗の寺に嫁いだ叔母に、曹洞宗の寺に嫁いだ叔母、クリスチャンの叔母に、神道を信じた叔母、新興宗教の教祖になった叔父と、政治家の叔父と、母)・・・・・*・・・・・・・・*・・・・・・・・・


ラインナップを見ただけでも、我が環境に混沌があったことは、想像していただけると思うが(私は叔父の選挙の際「○○をよろしくお願いします」のうぐいす嬢もやっている。)

ま、何を信じるのも自由だが、私にとっては、ありがたい教義を信じているという親戚が、少しも幸せにみえなかったことが問題だった。倒産という状況を受けて、皆の気持ちが荒んでいたこともあるが、(なんかおかしいんじゃないの?)と思った私は、生意気ざかりの年齢に入ると、次第に物事を斜に見るようになってしまう。

(※後年、比較宗教の対談本が出版することできたのは、この環境があったおかげだと思っている)


エネルギッシュで孤独な彼ら
は、日本文化の底流にある侘び・寂びの世界とは、おおよそ縁がない人たちに思えてならなかった。本家の蔵には、曽祖父が集めた美術品の類も多かったようだが、私が物心ついた頃には、そうしたものを鑑賞する空気は微塵もなく、多忙な商家に育った叔父や叔母は、きっと、祖母の愛を奪いあっていたのだろう。いつも愚痴や喧嘩が絶えなかった。

と同時に、50代で薬を発明してクリニックも開いた祖母が、音楽好きだったためにか、集まれば、見事なハーモニーで二部合唱。

Toon 私は、叔母たちの歌う♪「春のうららの隅田川~」を、何度も(首をかしげながら)聴いたものだった。

なんだかラテン系の犬神家(!)のような一族ではあるが、一時期、この一族から逃げたくてたまらなかった私は、明らかに、この血筋の一員である。



夢見がちで、過剰で、孤独がついてまわった
彼らの姿は、私にもなじみ深いものであり、きよめ慰めを求めて、何世代もの間さまよい続けた先祖の中には、掘り起こされることを待っている、無尽蔵の物語が眠っているように思えてならなかった。

わたしがこれまでに看取った患者たちや、接客した客たちのように、懸命に生きた命の証を、なんとかして語り伝えようと、迫ってくるなにかがある・・・・・*・・・・・・・*・・・・・・・*・・・・・・・・・・*・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

↑illust  by  ehina →   ・・・・*・・・・・*・・・・・*・・・・・・P0001_2・・*・・・・・・・・・・・・・・・・・       R1

その気持ちをどのような形に収めるのが最もよいことなのか、まだ戸惑いもあるのだがR2・・・・・・・ *・・・・

もとい。私にとっては、母に易占を吹き込んだ叔母が、住職夫人だったことも、奇妙に思えてならなかった。

寺なら、迷える人に対して“仏の慈悲”か“悟り”を説くのが当然だろうに、叔母にはそれができなかった。

多くの檀家や大伽藍を持っていたにも関わらず、叔母自身の中にも、癒されることのない闇があったのだろう。姓名判断や方位学、家相や四柱推命の本を母に与えた叔母は、一人で闇を背負いきれなかったのか、母共々、人の品定めに精出すようになる。

物事がうまくゆかない時は「日が悪い」。人といざこざあれば「相性が悪い」。病気になれば「方位を侵した」の繰り返しで、母と叔母は次第に、自己責任という言葉を忘れた人のようになってしまう。

メゾソプラノの軽やかな声で、《ラ・パロマ》や《シューベルトの子守唄》を歌う時、母は美しく、無邪気な世界に遊ぶ天使のような人だったが、いったん、そちらの世界に入ってしまうと、恐山のイタコか、呪術師ようになってしまうのだった。

なにより疑問に思えたことは、あれほどの時間をさいて勉強したにも関わらず、母も叔母も、そのツールを使って、より幸せをなれたとは、少しも思えなかったことだった。

Goto_2 Goto

Goto_3

     goto  retto  ni  aru  yume  no   youna  kyokai  

音楽だけでなく、世界には美しいものがたくさんある

だが、私を含めた多くの人は、自我による投影を繰り返して、ありもしない闇を作り、昨日を憂いて、明日を恐れ、今という時を、喜びの機会としてみることを拒んでしまうことが、多々ある。

変転するこの世界は空であり、世界それ自体には意味がない、といえるのかもしれない。あるのは世界を解釈する目であり、世界がおぞましいのではなく、おぞましいものしか見ようとしない自身の目に、問題があるのではないだろうか。で、あれば、真の解放は、この目(認識)に関わっているのだと…)

などと、究極的な解放について思い巡らすことなど、できるはずもなかった私は、人一倍、感が強い子供だったのだろう。知らず、母の世界を取り込んでしまい、幼稚園までの明るさはどこへやら、たちまち、うつむく少女に変わってしまう。

当時の母の自慢と希望は、優秀な姉だった。子供の頃から自己実現の道をめざしてまっしぐらに進んだ姉は、母に反応することもなく、本人いわく、《挫折ゼロ》で来た人だが、

こうした姉の生き方も、社会に出てしまえば、one  of  themでしかなく、《人生大学》で、素晴らしい方たちに会い続けるようになった私は、子供時代の点数評価が、絶対でないことにも気づいてゆく。

しかしそれとて後のことで、世界が狭かった頃の私は、小学校に入学すると同時に、三歳上の姉の圧力を、いたるところに感じるようになる。

私のまわりには、様々な圧力が渦巻いていた。喜びを見出すためには、いささかの労苦が必要な環境だったが、それでも今の私は、“この環境こそ”私に必要なものだったと思っている。

魂のレベルでは、人はふさわしい親を選んで生まれてくるのではないだろうか?それぞれの人は切なる願いを抱いて世に生まれ、その願いが最も実現されやすい経路であるところの、親兄弟を選んで生まれてくるのではないだろうか。

私の場合、子供時代は、こうした両親や親戚のもとで、後には、人を看取り、酔客をあやし、病院やバーを学びの場とする極端な道を選んできたわけだが、知らず、過酷シリーズを繰り返した私は、もしや“特別な喜び”を見出そうとしていたのではないだろうか・・・・・・・・*・・・・・・・・・*・・・・・・・・

もちろん、毎回、そうせざるをえない気持に押されてのことではあったが、意識下には、一切の条件を越えてある、純粋で、強靭な“普遍の喜び”を求める気持ちがあったと思えてならないのである・・・・・・*・・・・・・・・*・・・・・・・・・・*・・・・・・・・・・・・*・・・・・・・・・・・・・・

(ということがわかってくると、人は与えられた環境を受け入れ、被害者意識を捨てることができるようになる。短い人生、だれも被害者意識、加害者意識に引きずられて生きるのは嫌だろう。ゆえに、この小さな連載も、苦労話をすることが目的ではなく、これまでのコラムや絵物語と同じように、解放を促すためのものであることを、強調しておきたい)


等々、寄り道をしながら、時空の変化も織り交ぜながらで、ややこしいことしきりだが、今は先を急がず、過去トンネルの掘り出しを、もう少し、続けることにしよう。

そう…塵にも等しい、ちっぽけな虫は、明るい戸外を避けるかのように、闇の中へと入ってゆく。まるで、その闇こそが、最初の変化を生み出す産室であると知っていたかのように、内へ、内へと入ってゆく…



※続く。

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2008年6月13日 (金)

光の踏み石編(2)

願わくば、この小さな試みを通して、私たちが変転する現象の“背後にある”不変の世界に導かれますように。

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第一部をupすることは、私にとって、いささかの勇気が必要だ。往生際が悪いことしきりだが、果たして公開すべきなのか…と。

だが、時、同じくして《秋葉原無差別殺傷事件》が起こり、彼(加害者・被害者)でもあったかもしれぬ自分を強く覚え、公開せねばならぬと知らされた。

人は、自身を“価値ある存在”と見ることができて、はじめて他者を思いやることができる。世の価値感を越えて、互いは尊いものに造られた尊い存在であると認識できて、互いへの敬意も生まれてくる

しかし、そのことを認識していないがゆえに生じてくる悲惨が、世にはあふれており、メディアは悲惨報道を繰り返すものの、真に有効な、認識転換の提示ができていないように思えてならず…

という状況のもと、自分を無価値なものと決めこんでいた私が(そう思いたい誘惑は、今も日々押し寄せてくるが)どうやって“あの世界”を抜け出てきたか語ることは、もしかすると、意味があることなのかもしれない。

前置きが長くて恐縮だが、私の人生は特別なものではない。アフリカのスラムに住む少年のようなサバイバルがあったわけでもなければ、セレブでもなく、虐待児だったわけでもない。

そしてその事実を踏まえた上で、長い時をかけて和解に至った亡き母をはじめ、登場する人物すべても、同じように造られた存在であるということを、ここに明記しておきたい。

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 R3

そもそもは、世にいうところの「逆玉婚」、勤務先の社長の娘と結婚した父が、祖父から譲り受けた家に転居した時から、物語ははじまる。

当時の父の気分は「超ラッキー」。多分、バラ色の人生を夢見ていたはずだが、願いに反して、私たち家族は、ささやかな喜びも束の間、次々、異変にみまわれるようになる。

一酸化炭素中毒だ、赤痢だ、怪我だ、食中毒だと、救急車の世話になること度々の果て、曽祖父の代からの家業が左前になり、連日、ぼっちゃん育ちの祖父に罵倒されていた父が、母を怒鳴り続けるようになったあげくの、会社倒産。不慮の事故で父も早逝すると、含むところでもあるのか、母が、因果の鎖をたぐりよせるように、ぽつりといった。

「やっぱりね…」

I

聞けば、我が家はかつて、叔母夫婦が壮絶な喧嘩の果てに、離婚した家でもあるとのこと。

しかもその別れ際、漢文の素養をもっていた叔父が、恨みつらみのありったけを、壁一面、毛筆で書き連ね、自他に対する憤怒の墨を、ところ構わず撒き散らしていったという。

なんだかラフカディ・オハーンの怪談、『耳なし芳一』にも繋がるような話だが、その部屋で産声をあげたのが唯一、私だと聞かされた時は怖気がきた。

「やめて!」

母は話をやめなかった。それどころか、家を掃除した際、小屋には(私が唯一苦手で名前の発音さえしたくない)snake軍団がいて、父がそのすべてを茶箱に入れ、生きたまま、海に流して捨てたと加えたのである。

「やめて!やめて!」                   ↑ ashi  ga areba heiki                                                     泣きながら叫んだ私は、もちろん、会うことさえなかった叔父の漢文を見ていない。壁紙は剥がされ、あとかたもないのだが、思念というエネルギーも残るものなのか、長年、私がまとって生まれた空気であるところの、“知と怒”が、親しいものになってしまう。

そして歪んだ笑みを浮かべて話し終えた母は、ピアノ教師をしており、よそ目には、お嬢さん気質の明るい人だったが、反面、ひどく臆病で、自身を霊媒体質と公言してやまぬ、土俗的な人でもあった。                                                                       

R1 事実、イタリア歌曲や、北原白秋、野口雨情らの童謡を歌う母の周囲には、奇妙なことが多々あった。(当時はわからなかったが)自分の握りしめた磁石のゆえに、鉄くずがついてくるだけのことなのに、磁石を手放すことのできなかった母は、自らが招いた鉄くずを怖がりはじめ、子供の私に向かって、奇妙な理屈ばかりいうようになったのである。

体が弱かった若い頃には、祖母に連れられて教会にも通ったとのことだが、母は父の死後から、一転、怪しげな祈祷師のもとに通い始め、今度は、そこで仕込んだ話を、子供の私に向かって、話すようになる。

「家はひどい因縁の土地で、昔は死体が投げ込まれていた池だったんだって」

そのせいでかどうか、後年、私は死者たちに親しい世界に飛び込むことになるのだが、母と異なっていた点は、そこで、思わぬ喜びを見出したことだった。しかし、そんなことは予想だにしない頃、

祈祷師から、「このままでは一家全滅」といわれた母は、以後、土地の供養料と称した金を、何十年間にも渡って、払い続けるようになる。

※ちなみに、子供時代に染み付いてしまったこれらの物語は、私が見た事実ではなく、すべて、母から聞かされたものである。だが子供にとって物語は世界そのものであり、私は母を通じて(現代の子供たちがホラーアニメにはまったように)世界を「おぞましいもの」と、とらえそうになったのだった。ゆえにこそ、今の私は、子供たちへのよき絵本や、物語のよみきかせを、本当に本当に、大事なことと思っている。


母が母なりに考え、わたしたちを守ろうとしたことは確かだが、当然のことながら、子供を三人抱えた未亡人の日々は、重圧だったのだろう。母の恐れは恐れを呼び込み、私は、さらなる混沌の中に巻き込まれてゆくのだった…

※続く

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2008年6月 8日 (日)

my story 光の踏み石編(1)

Tuyu いったい、どれほどの方が興味をもってくださるのか?だが、ふと思い立って、セキララな私自身の物語をupすることにした

    物語は大きくわけて四部構成で、

   ・光の踏み石編(郷里を離れるまで)

   ・渋谷・開拓編(アルバイト時代)

photo by mituhiko imamori         ・銀座・止まり木編(〃)                                ・渋谷・疾風怒濤編(開店まで)

それぞれの章は、さらに細分化してupする予定。私のプロフィールをみてくだされば想像できるだろうが、どっぷり深い闇から、ハラハラドキドキや、けらけら笑っちゃう世界まで(古い話で恐縮ですが)あれこれ盛り込み、しかしン、十年間の歴史を語りつくせるはずもなく、そこで起こったあれこれのうち“ごく一部を”アバウトな短編形式でupすることにした。

人によっては、ウへー、この人こうしてできたのか~と避けて通りたい部分もあるだろう。意外や意外と、びっくり、目を丸くされる方もおられるだろうけれど、あれも私、これも私。真闇と思えた時代にも光があったことに気づいた今、遠い日々の景色を語るのもよしと思った次第である。

具体的には、何をどう書くつもりなのか、自分でも予想がつかないままだが、ま、ここまできたらやるだけよ(笑)

かつ、今回は「しんりちゃん」の時とは別の長丁場になりそうで、一人で走るのは、ちと淋しく、そこで折々の伴走者として、旧・お客様方を《勝手に》引っ張り出す(かも)しれないが?皆様方、首を洗って、そこんところヨロシク!※あるいは一気に全編upでなく、章ごとリセット、コラムをまじえてゆくかも?

いずれにせよ、不定期upの連載ゆえ、「かったるいなぁ」と思われる方は、例によって、月末あたりにまとめてみてね。

初回の今日は前ふりだけ。いわば「お通し」みたいなものだけど、今時だと、ウーン、山芋の短冊+梅肉あえってところか?お酒の話が出てくるのは、かなり先になりそうですが、恋女房のお酌で、ビールに空豆でもつけて、ゆっくりお付き合いくださいね。 

↓  sekai  wo  kaeru  jikan  no   migiwa

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アゲハチョウの幼虫は、卵からかえったあと、4回脱皮を繰り返すという。羽根を得るはるか以前、サナギ前にも変化が余儀なくされると知った時、私は、ひらひら遊び戯れているような、蝶の道の険しさに思いを馳せた。

そしてもし、「蝶語」が話せるのなら、彼らにきいてみたい。「闇の中で丸まっていた時、どんな気持ちでしたか?」「やがて得るだろう羽根の色は、知らされていましたか?」「空への憧れはありましたか?」

捕食者に食われてしまった青虫の数は、幾億万…であれば、空に舞う蝶の姿は、解放の勝利を示す奇跡そのもの…

などと、他愛もないことを考えている今の私は、蝶というよりカミキリムシ、いや、玉虫に憧れるダンゴムシかもしれないが、先日、かつて纏っていた抜け殻を整理していたら、ふと脱皮記録のようなものが書きたくなった。

ということで、心のままに綴るキャタピラ・ライフ(お!caterpillarを辞書で引いたら「芋虫」のほか、「欲張り」「無限軌道」の意味もあると知って、にっこり。前者は芋虫の食欲の旺盛さゆえ、後者は、果てしない道を延々進むイメージか?)

ってなかんじで、なんとはなしに感激の今日、導入部は、日本昔話のような、おっとり軽い語り口でいってみよう。


むかし、むかしあるところに、まだ光を知らない、一匹の虫がおったそうな。その虫は、暗ーい暗ーい闇の中、ぶつぶつ、独り言を言いながら、あちこち這い回っておったそうな…

※続く

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