水の黙想
蛇口に連結していること。ホースに破損がないこと。方向をコントロールすること。
これらは執筆の際の注意事項と同じだ。“創造の源”(水源)と連結すること。自身(ホース)の意識に破綻がなく、的を一つに絞ること。
突然、思う。私はこれまで素晴らしい方々にお会いする恵みを受けてきたが、天才と呼べる方は、芸術部門では、舞踏家の大野一雄先生と、過去、十年間稽古を受けた武道、新体道の創始者である、青木宏之先生だと。
大野先生に関しては回を改めたいが、青木先生との出会いは、敬愛する同志にして、永遠の兄、電気トランペッターの近藤等則こと、「とっちゃん」からの紹介だった(※人との縁は不思議。彼との出会いは、私と同じ版元から本を出した物書きの義兄氏からの紹介だった)
とっちゃんの曲や演奏があまりにすごかったので、創作の秘密を知りたいと思っていたら、「新体道をやっていた」「なにそれ?」
ミーハーゆえにではなく、表現への憧れゆえに、じゃ、私もやってみようという軽いノリだったが、まさか十年も続くとは…
お会いした青木先生は、なんとはなしに懐かしく、インスピレーションと集中力の塊のような方だった。だが権威主義とはほど遠く、スカーンと抜けた青空の下、からから笑う、巨大児のような方でもあった。
世界を股にかけて生きるスーパー・アーティストたちの話をしようと思ったら、数千ページあっても足りず…そこで青木先生の言葉のひとつを思い出しながら、再度ホースに戻ってゆく。
目詰まりしていた私は“通りよき”ホースになりたいと思っていた。与えられた有効なもののひとつに新体道があったわけだが、新体道は格闘技ではなく、型と組み手と瞑想を中心とした、総合武道である。
様々な型の中には“栄光”や“光と戯れる”といった素晴らしいものもあり、準備稽古の段階で、徹底した柔軟体操が行われたことも新鮮だった。
ちなみに、新体道における理想の体は、ガンダムではなく、赤ちゃんのような体である。どこにも力みがない柔らかな体がベストとのことで、フーム、なんだか聖書にある「幼子のようでありなさい」にも通じるではないか。
それもそのはず、青木先生は若き日に受洗された、クリスチャンでもあった!(世界の思想や哲学、宗教に精通された今は、既存の教会活動とは距離をおかれているが)
また、新体道の稽古着は帯も含めてみな、白。「なぜ?」と質問したところ、
「聖書のヨハネ黙示録から。世の終わりに“子羊(キリスト)の血によって洗い浄められた、白く輝く人たちが現れる”っていうところから、ひらめいて」と。
こうして、強力な個性を持つ方々に会い続けてきた私は、カウンターバーでの会話という“実践組手”と稽古を続けるかたわら、大失恋をへて聖書を読むようになり、一年後、受洗。
今度は、青木先生から井上洋治先生を御紹介いただき、芭蕉、西行、法然等にくわしい先生のもと、イン・カルチュレーション、キリスト教の日本文化内開花を志向する聖書講義を受け、イスラエルまでいってしまう…
ともかく…我が人生…すべての分野で、とんでもない学習を続けてきたことだけは確かだ。情報消化に時間にかかり、遅々とした歩みに恥じ入るばかりだが…
もとい。ホースコントロールをすべく、pcの前で座り直す。そうだ、新体道では稽古前、全員、円になって正座した。
体育館全体、針が落ちても聞こえるほどに静まり、
「円の中心に向かって、礼!」
“宇宙の中心”(=自身の中心)に向かって頭を下げ、ゆっくり上げると、もう目が違っていた。
「黙想、やめ」
ひとしきりキーボードを叩く。
叩きながら、かつても今も、ふさわしい出会いと学びの場が与えられていることに感謝して、しばしのち、炎天下に立ち、ぐっ、と蛇口をひねる。
散りばめられた水晶のような水の向こうにかかる、ひとすじの虹。一瞬のうちに消えてゆく軌跡を目で追ったあと、さらに座る。
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