なぜ私に?
●猫好きの友、Uさんが泊まりがけで遊びにきた。彼女は職人系の生活の達人で、楽しい人だが、ん?今回は少し様子が違っていた。
実は、猫を愛してやまないUさんは、家猫意外に外猫(野良)たちにも餌をあげていた。
集合住宅に住むため、近くの公園で、夜、数匹の野良たちに餌をやり、完食を確認した後、皿を片づける作業を毎日続けていたのだが、
ここ数日で猫数が激増。聞けば、近くに住む獣医さんも、自宅の庭で野良たちに餌をやっていたとのことで、
「一人住まいのその方が、突然入院され、お宅が閉めきりになったんです」
よって行き場をなくした猫がUさんの餌場に押し寄せ、その数、約20匹!
越境難民(?)の中には、子猫もいた。当然可愛いい。餌をやらなくては死んでしまう。だがUさんの労力・餌代・時間は以前の比ではなく、仕事にも支障が出て、このままでは自分が死んでしまう。
思い悩んだ末、近所に住む猫好きの友に作業分担を提案したところ、即、いわれてしまった。
「私は忙しくて無理!でも、お願いだから、その子たちにも餌をあげて!」
生き物の命はみな尊い。そんな理屈は誰だって知っている。でもこの状況で一人だけに作業を押し付け、命の価値を説くなんて、そんなのヘン!
猫好き同士は決裂寸前になり、Uさんは一晩だけ餌やりを別の人に頼み、一時避難をしてきたのだ。
「私にだって、できることとできないことがあります…」
深夜、御近所に隠れて葛藤まじりの義務感で餌やりを続けるものの、飢え猫集団の奪い合いを目にする作業が、苦しくてならないとも。
「まず、“私自身が幸せでなければ”どの猫とも幸せな関係はつくれないと思うんです…」
涙声の彼女に向かって、
「区立公園でのことだから、区に相談するのはどう?」と、アサハカな質問をしたところ、さらに重いトーンの返事が返ってきた。
「そんなことしたら、みんな殺処分されます」
その言葉で…私は以前見た、《写真集》を思い出したのだ。
●保健所に集められた捨て犬だけを写した写真集だった。写された犬たちは、迫りくる運命を察知していたのだろう。犬の顔に眉はないはずなのに、すべての犬の額は、みな“ハチの字型”になっていて、なによりその眼が、とてつもなく深かった。
犬たちは、極度の緊張を強いられる檻の中で、人の足音がするたび、ピンと耳を立てることを繰り返していたはずだ。
(僕がここにいるのは、何かの間違いだ。ほら、全信頼をよせていた飼い主さんが現れた…)と思った途端、(ああ違う…臭いが違う…)絶望につぐ絶望を重ねたあげく、今度は(もしかすると…この人が救い出してくれるのかもしれない)と、あまりにも淡い期待を抱き、犬たちは来訪者を見つめるのである…。
(ガス室で苦しむ断末魔犬の声をテープに取り、犬を捨てたすべての人間に送りつけるべきだ!)
と思ったのだが…振り返れば…自身も離婚後、育てられなくなった猫を猫嫌いの母に預け、それきり猫はどこかに消えてしまったではないか…そんな半端な愛し方をした私が、人のことを責められるのか?
どうしたら犬も猫も人も喜べる世の中ができるんだろう?
地域に犬猫ボランティアがあるのかもしれないが…どんなに物があふれていても、生き物の殺処分が当然とされる世の中が、豊かであるはずがない…とうなだれていたら…しばらくのち、また別の景色が浮かんできた。
●26歳の私は…伊豆のとある病院の個室で付添婦として働いていた…その時の患者は裕福な老婆で、肺癌末期の方だった。
しかし当初の容態は悪くなく、私は老婆の(そこまでいうか?)という言葉に辟易しながら、黙々と働いていた。
ほどなくして、老婆をとりまく環境がみえてくる。早くに夫を亡くした彼女は気丈にならざるをえず、ゆえに嫁との折り合いも悪かった。
可愛がっていた息子や孫も遠くに住んでいたため、彼女は長年「頼れるのは自分だけ」と思い、病室でも鎧を着こんでいたのである。
(弱みをみせたらつけこまれる)(この小娘の仕事ぶりも監視しよう)
老婆の気は休まる暇がないようだったが、私は、ただでさえ狭い病室を牢獄にしたくなかった。
(※茶室もそうだが、どんなに狭い空間でも、心ひとつで壮大な宇宙を思い描くこともできる)
私は患者の訴えに耳を澄ましながら、愚弄や罵倒に極力巻き込まれないよう、窓辺にやってくる鳥を見たり、花を飾ったり、時にFMラジオで弱音の音楽を流し、「フン、耳障りだ。止めてくれ」いわれれば、黙って止めることを繰り返していた。
やがて老婆は変調をきたし、発熱や呼吸困難が頻発する。彼女の言葉使いが変わったのは、それからだった。
「おねえさん、どこ?」
女王様のように振舞っていた人の体が急速に縮み、
「頼むよ、いっちゃいやだよ、そばにいておくれ」
しきりにせがむようになった。ことに夜、闇が怖いのだろう、天井灯を消してくれるなといい、何度も何度も起こされるようになる。
ねぼけ眼で起きあがったある夜、私は老婆の顔に、あの犬の眼を見たのである…。
もちろん、私だって天使じゃない…神様の愛を知らなかった頃だから、なおさらだが、小動物のようにおびえる人を前にして、(そらごらん)と思わないでもなかった。
だが80年余の人生の最後、全身全霊ですがってくる人を前にした時、私の口に、おのずとのぼってきた言葉があった。
「大丈夫ですよ。そばにいますからね」
私は毎回(コノヤロー)と“自身に”毒づきながら、持てる生命のありったけを絞りながら、病者と関わってきたのだ。
しかも、血まみれ、汗まみれ、糞尿まみれの勝負のほとんどは、惨敗だった。病者たちと心が通ったと思ったのも束の間、その多くは死の淵の向こうに連れてゆかれたからである。
病者の数はきりもなく、私は、毎回の勝負に負けて負けて負け続け……(もう自分の中に何も残っていない!すっからんになってしまった)世界の淵のようなところに、たった一人で残されているように思ったこともあった。
だが…精根尽き果て…空っぽの器になってしまったと思えたその時…何もないはずの心の底に、なお、かすかに立ちのぼる、淡い気配があった。
目にみえない“それ”は、最初あまりに小さく、私は無視し続けた。しかし、怒りや嘆きや哀しみといった一切の感情を突き抜けてあるそれは、私にとって、なにかしら大切なもののように思えてならなかった。
(これって…一体…)
何もないと思っていたところに、誰がくれたのだろう?一輪の花があったような。その花の輪郭はまだ不確かだったが、《ゼロと1》は明らかに異なり、私はその花を知りたいがため、次々患者を求めてゆくようでもあった。
あるいは、荒地を掘り続けた野犬か、金の鉱脈を掘りあてようとする、《山師》のようであったかもしれない。
なんであれ、私は自分の嗅覚だけ頼りに、「ここには何かある」と思い、明確なキリがつくまでは、誰がなんといおうと、毎回の仕事をやめようと思わなかったのである。
(長年、穴掘り犬を続けた私が見つけたものは、自分の庭に埋もれていたビー玉だったが、私はそのことに心から満足している)
そもそも…私は、なぜ、こんな仕事をはじめたのだろう?
多分…私も、あの犬のような眼をしていたからだ。
思春期の“思い込み”もあってのことだが、世界から拒まれていると思った私は、(自分はみっともないから…勉強ができないから…食べ物を吐き続けているから…)
生涯、引き取り手はないと決め付け、自分に相応しいところにゆこう…と思っていたのである。
何を隠そう…実は私の方こそ、この言葉を誰かにいってもらいたかったのだ。
「大丈夫ですよ。そばにいますからね」
だが私は《不思議な力》を得て、聞きたかったその言葉を、自ら発するようになってしまう…。
●心の整理がついたのだろう。帰宅したUさんから℡が入った。獣医さんがいつ退院されるかわからないが、「すべての外猫への餌やりは、20日までにします」
つまり、別の餌場を求める猫たちのサバイバルがはじまるわけだが、Uさんは「どうしてもいう猫と関わってしまったら、場合によっては、家猫にして世話をします」ともいった。
20匹中、可愛いいと思える猫だけを選んで飼うのではなく、《どうしても見捨てることのできない瀕死の猫》との縁を感じたら、飼うのだという。
●マザー・テレサは、カルカッタの路上で倒れていた人たちを拾いあげ、「人間らしい死」を提供すべく、世話をし続けた方だ。
というと、「またその話か。耳にタコができた。そんなことは誰でも知ってる」といわれそうだが、本当にそうだろうか?
多くの人はマザーの活動を《知識》として知っていても、その情景をつぶさに思い浮かべることはできずにいるのではないか?
(※私が何度もこの件を持ち出すのは、皆さんにインドゆけとか、ホームレスの世話をしろといいたいからではない。私自身も含めて、“真の豊か”さに不可欠の、《愛について考える機会》になればと思っているからである)
たとえば、マザーが近寄ってきた時、ある人は多くの通行人にされたように、蹴飛ばされるか、石でもぶつけられると思い、身を硬くしたはずだ。
また、ある人は、なけなしのサリーを剥ぎ取られると恐れ、朽木のような手で前をかきあわせたかもしれない。
長年のサバイバルを送ってきた人なら、当然の反応だが、予想に反し、彼らはマザーの下、それまで味わったことのない扱いを受ける。
ヒンドゥー教や、イスラム教や、仏教から、カトリックに改宗しろと迫られることもなかった。屋根のあるところで体を清めてもらい、食事や、毛布や、微笑が与えられた。
ある時、かつぎこまれた人がマザーに訊ねた。
「どうして私に、こんなことをしてくれるのですか?」
泥棒か、詐欺師か、放火魔か、人殺しだったのか定かではないが、彼が悪事の限りをし尽くした人である可能性もあった。
そしてそんな人が倒れていたら…おそらくは「自業自得だ」「いい気味だ」「ザマミロ」とほっておかれるのが常だったろうから…男は、訊ねずにいられなかった。
「なぜ私に?」
「 Because Ⅰ love you 」
その瞬間…男の口がわずかに開き、抜け落ちた歯の隙間から、注がれたおかゆがこぼれたかもしれない。
(愛している…?)
それは遠い昔…どこかで聞いたような言葉だったが…そんなものは遥か彼方にかき消えてしまい、自分には縁なきものと思っていた。だが今、
(この俺を…愛している…?)
男がその言葉の意味を知ったのは、生涯が終わる直前だった。芥子粒のように小さく思えるその言葉は、男を内から照らし、寺院や通りに降る雨のように、干からびた心を濡らし続けた。
《決して見捨てない人》の腕の中で、金色の雨のような言葉に浸された時、おそらく、男の眼は、あの犬のような眼ではなく、人間の眼に変わっていたはずだ。
「 Because Ⅰ love you 」
マザーにこういわせた“同じ力”が、私を招いてくれた。そして、これまでもそうだったように、これからも様々な波は押し寄せてくるだろうけれど…私はそのつど、この光に安らう。
それぞれの場で、懸命に生き抜いた犬も猫も人も………みな、この光に安らう……
様々な痛みを超えて、今、私は祈る。
あなたの今日に慰めがありますように。
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