濃い命の場を
●三沢光晴さんが急逝された。
私がその名前を知ったのは、《主婦の友社》に勤務する編集者である、友人のS君経由で、S君がかつての同僚だった、H君とてがけた単行本、<チャンピオン・三沢光晴外伝>(同社刊)がきっかけだった。
お二人の企画を聞いた時、(主婦の友社からプロレス本!)私は大胆な取り合わせに絶句。よくぞ!と思っていたら、彼らの上司もナイスな方で、
「ま、あいつらの気持ちが、熱かったからさ…」三十代の部下たちの企画を上に通し、「どーんとやってみろよ」に、なったのだと。
お二人は、好奇心とお酒がめっぽう強い格闘技好きな編集者で、“みぎわ”にもよく通ってくださった。
私が過去、武道をやっていて(格闘技ではない。型と組み手だけだが、「もろ蹴り100本!」なんて号令で、左右の宙を何百回も蹴り続けていた)プロレスではスタン・ハンセンやブルーザ・ブロディが好きだったが、ヒクソン・グレイシーには神々しいものを感じる…
といったら盛り上がり、深夜の店に、上記本の初稿までもってきてくださり…あーだこーだと内緒の編集会議(?)まではじまって……
しばらく後、出来上がった本のラストページに、「special thanks migiwa 」の文字を見つけた時は、思わず泣けた。
※本であれ、人であれ、店であれ、また私自身が著者であれ、経営者であれ、付添婦であれ、産婆であれ、いろんなものの《生き死》の現場に立ち会ってこれたことは“本当に幸せ”だった。
そこにはいつも濃い時間が流れており、常とは違う、魂との関わりがあったからだ。
※思えば、私の人生はスタートからして、色濃い死の気配に包まれていた。きっと私は、本能的に、それに見合うだけの生命力を取り込む必要性があると感じていたのだろう。
武道も、踊りも、看護も、経営も、旅も、少なく深い恋愛も、私が取り込んだエネルギーは、それに見合うものだった。
そして濃い命の場を渡り歩いてきた私が、創造や、破壊や、死や、再生といった、宗教や芸能や、身体芸術に関する場に立ち会うことは、極めて自然なことであり、同時にそれらの行動は、《大地との関係が薄れて》命が痩せてゆく一方の都市にあり、巫女や治療師(ヒーラー)もどきといわれた、不思議な働きに繋がっていったのである。
もちろん…私はそれを狙っていたわけではない。《結果的に》そうならざるをえなかった。宿命というのか摂理というのかわからないけれど、ぎりぎり押し出されて、それしかないというような、毎回の招きに応えてきただけ…なのである)
もとい。青年編集者二人が、熱狂的に語り続けた三沢さんについては、ずっと気にしていたが(個人的には蝶野正洋も好きだが)いつかリングサイドにゆく機会があるかも…と思っているうち…
三沢さんの享年は46歳だった…。友人たちの涙に添えて、一筋に闘い抜いた戦士の、あまりにも早い最期に合掌。
●しばらく前の訃報に関しても。
みぎわの近くには、エイベックスや音楽関係の事務所も多かった。そのため、音楽雑誌の編集者だったお客様から、撮影に使わせて欲しいと頼まれ、営業前に店を貸したこともあった。
(どんなミュージシャンがくるのかしら?)と思っていたら、なんと、忌野清志郎さんだった!
音楽評論家の渋谷陽一さんのインタビューに答えていた彼は、極めて礼儀正しい方だったが…小一時間ほどチェーンスモーカー状態で…あの頃、すでに喉頭癌だったのかと。
もっとも、健康はひとつの価値ではあるが、目的とはなりえない。健康であるかどうかが問題ではなく、問題は《与えられた命をどう生ききるか》だ。
命を支配する存在をリアルに感じつつ………「愛しあってるかい?」多くの人に問い続け
た彼にも合掌。
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