愛の水路を
●先に、ジャコメッリの写真を通じてモノクロの魅力を再確認したが、色彩についても少し。
私はルドンという画家も好きで、(好きなものが沢山あるなァ)ことに<黒の時代>をへての色彩の爆発、次元を超えた世界を映す、彼のパステル画が大好きだ。
多層に輝くルドンの魅力についての説明は省くが、同時に私は、小さな子供が抱く、<単純な喜び>も大切にしている。
たとえば《白黒のボールが10個ある部屋》と《七色のボールがある部屋》のどちらか選べといったら、子供はどうするだろう?
答は明らかだと思うが、私も「こっち!」といって走ってゆくような、躍動する喜びを大事にしたい。
(虹が黒かったら、誰も喜ばないな…)
私が絵描きで、描きたい絵があったとすれば、歩んできたすべての道は、絵の具を獲得する道でもあったといえよう。そして、もっとも深い黒をも含む、すべての絵の具が与えられたと思える今を、心から感謝したい。
●我が生涯最初に出会った作家である、小川国夫先生の(1)遺作随想集(2)遺作短編集をみつけて購入。(1)のタイトルにハッ!
先生は、我が郷里である田舎町の景色に、若き日にバイクで放浪された、イタリアやギリシャの景色をからめながら、数々の作品を編んでこられた方だ。
(※不思議なことに、私が生まれてはじめて会った牧師と、東大時代の同級生。その後、先生はソルボンヌに留学して放浪。牧師は、知的障害者施設を開設)
本書には、地上に生きるものの哀しみを超えてある、星の光がちりばめられているが、それだけでなく、芥川龍之介が捕まえられてしまったような、“真の芸術表現”に付随する、デモーニッシュな世界についても語られている。
そして今回、カトリックである先生の視点を介して、普遍の光を確認できたことは、私にとって<大きな幸い>といえよう。
そう…先生とはじめてお会いしたのは、私が20歳になったばかりの頃だった。
先生は、生涯、静岡から転居されることもなかったが、あきらかにコスモポリタンであり、私は先生の持つ超一級の知性と、侠客のような(血と闇を隠し持つ)無頼の気配が好きだった。ある時、先生が、
「焼津はナポリに似ている」
といわれ、仰天したこともあったが、(当時の私は、郷里を全否定する一方、ひたすらイタリアに憧れていた)でも、この言葉を思い出したってことは…郷里の風景を認知したってことで…“ようやく”自分が郷里を相対化できたことを知る。
忌み嫌っていた郷里の“方言”に対して、まったく抵抗なく読めたこと。それどころか美しいとさえ感じたことと、個人的な驚愕が。
先生の御著書を購入したのは、おそらく15年ぶりだ…
なのにその本には、なんと、先に紹介した「牧師の話」を小説化した作品が収録されていたのである!!
学園の風景や牧師の風貌も、私が知っているそれと重なり……「今」この本に出会ったことに<畏れ>を感じた私は……慄然…
※この驚きは、ブログにupしきれない、私の活動を知る方だけわかってくださることだと思うが…天国におられる二人の先生からのエールが、ヒシと伝わり、どんな時代がこようとも…私はもう…逃れようもない役割の中にいるのだと…
不思議なことが、次々おこるだろう予感大。
本物の花を摘み、機械を使って乾燥させたあと、色を留め、花びら一枚一枚をボンドで張る、繊細な作業のたまものだ。
力強く、清い足取りで《近づいてくる人》は誰?ミステリアスなことに、顔が見えないのだが…
見つめるうちにハタと気づく。あぁ、これは私たちのもとに、日々、祝福を携えて訪れる“聖霊”だと。
よきものは、日々、私たちの近くにきている。しかし雑音にとらわれている耳に、足音は聞こえない。だが、最初、かすかに聞こえるだけの音に耳を澄ませているうち、少しづつ音は大きくなってきて…(なんだろう?)不思議なオトズレを、心待ちするようになる。
もちろん、聞こえても聞こえないふりをする人もいる。音の存在すら認めず、(心の)扉がノックされても、開こうとしない人もいる。まったく別の、苦しみをもたらすものを招き入れてしまう人もいる。
聖霊は、よきもの(愛・光・平安・喜び)を運ぶ(しんりちゃんのような)存在といえるが、「そんなものあってたまるか。喜びってのは、“自分で掴み取るものだ”」という人もいる。
そう?それ式で「真の喜び」を掴める?
水が飲みたければ(日本では)蛇口をひねる。水路を開く決定権は私たちにあるが、水は彼方にある<水源地>からやってくる。
同じように、「真の」愛が欲しければ、<愛の源>の存在を信じ、心の水路を開くことだ。
源は「神の領域」であり、そこに通じる水路は、すべての人に与えられている。そして水路を開くよう、促してくれるのも聖霊であり、喜びは掴み取るものではなく(もちろんその努力は否定しないが)すべからく、「与えられるもの」だと、私は思っている。
うん。自分で掴みとったものなら、(エゴによる喜びはあっても)感謝は生まれないよね。せいぜいが、「どうだ、ザマミロ」で→(分離・孤立化)
与えられたものと思えたら、与えてくれた存在に対して「ありがとう」が生まれ→(一致・共振)
(※共振が深まると言葉も失せ、音叉状になり、響きだけが残る)
もちろん人間、いつも喜んでなんかいられない。喜怒哀楽、毎回の感情に正直で、ひとつの感情に固執しないってことが自由ってことで、自由でありたいなら、子供たちを手本にするといい。
小さな子供たちは、びっくりするほど素直に、「ありがとう」や「ごめんなさい」や「なぜ」や「大好き」や「大きらい」をいってケロリと手放し、「今」を夢中に生きている。
なのに、多くの大人たちは、蛇口を閉ざしたまま喉が渇くと泣くように、心を硬く閉ざしたまま、愛がほしいと泣いている。
(オレの水道管は腐りきってるから、ダメに決まってる…)自己評価を重ねて落ち込むより、まずは蛇口を開いてみたら?
神様の評価は、私たちのそれとは違い、私たちのアホさ加減を「すべて」御存知で愛してくれている。
だから心を開くことさえできれば、(開けないなら津波を待ち)、いずれにせよ、勢いよく流れ込む水が、汚れたあれこれを押し流してくれるだろう。
「あなたが」神様を捨てることはあっても、「神様が」あなたを捨てることはない…
なーんて、キイタふうなことをいってるが、私は、つい最近のヤマも含めて、とことん嘆いて砕かれてきたクチである。空っぽになったことで局面が変わり、次第に“開放系”になってきたのだ。
ま。選択は人それぞれ。「好きにすれば」ってとこか。
●我が周囲にも“自分で紡いだ悪い夢”に苦しみ、輾転反側を重ねる方がいる。某日、その人たちのために、永遠の少女にして母が(!)深夜、即興の子守唄を歌う。
♪ねんねの森の ねんねのクマさん
ねんねのウサギに ねんねのタヌキ
ねんねんよー ねむーいなァ
やさしいメロデイを聴かせることができず(→季節はずれの写真も)残念ですが、今日の哀しみは今日だけで十分。明日はまったく違う風が吹いてきますから、
みなさん、ぐっすり眠って、いい夢を見て。なにより、
愛の水路を錆びつかせないようにね!
じゃまた、お元気で★
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