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2008年6月20日 (金)

心のままに

突然だが、うれしい情報が飛び込んできたので、深呼吸もかねて、闇との闘いは一回休。

先のアートコラムで御紹介した、中西夏之の親戚…ではないけれど、これまたステキな画家の中西良さんから、個展の御案内をいただいた。


『草木の暦カレンダー原画展』  6月26日(木)~7月1日(火)AM10時~PM7時

Ryo_3

中西さんとの出会いは、風に導かれた

としかいいようがないのだが、ある日、我が家の近くを散歩していたら、いい味出してる古民家があって、ふらりと寄ったところ、1Fは建築家の事務所で、2Fの画廊は、個展開催中とのこと。

Ryo 大昔は旧華族の別荘だったそうだが、ぎしぎし、音のする木製階段を登ってゆくと、目の前にはカランと静かな板の間があり、開け放たれた窓からの風に、並べられた掛け軸が揺れていた。

抽象、具象の枠組みを超えたそれは、四季のうつろいを描いたもののようだったが、山や川といった事物そのものではなく、折々の空気を描いているもののようでもあった。和なのに洋、洋なのに和の、エレガントな空気感があって、

(なんかいい感じ)

と思った私は、流れのまま、置いてあった冊子にある、画家のプロフィールに目をむける。

長野県生まれの彼は、芸大卒業後、イタリアのミラノにある、ブレラ美術学院に留学し、メキシコや、東京の日動画廊でも個展を開いていた人だった。

(私の方は、数日前、イタリアにいる友人がアート・クラブを立ち上げたばかりだったので)なんとはなしに響きあいを喜んでいたら、階下から登ってきた人、約一名。

ピシリとした緊張感と、端正な気配の彼を横にして、今度は、ソファの端に置いてあった文庫本が目につき、ふと手にしてしまう。

と同時に、「あ、それ僕の…」戸惑いの声をあげ、あつかましい訪問者の手から本を守ったのが、画家本人、中西良さん、その人だった。

Tea_2 本は白洲正子の書いた評伝、「西行」だった。(これが「全国駅弁漫遊期」だったら、展開は違っていたろう)

ほかに誰もいなかったこともあって、心のままに話しかけてみる(私は原稿の追い込み期でひどい格好だったから、中西さんは、アヤシイと思ったにちがいない。当初、すごーく慎重な間合いだった・微笑)

で、彼の作品を紹介した冊子を見ながら話しているうち、淡い紫と緑を基調にした、雨後の街のような、朦朧風の一枚が気になり、

「これ、どこの風景ですか?」と質問したところ、びっくりの返事が返ってきた。

「アッシジです」

(私の大好きなイタリアの街!)次いで、「日動画廊にも画商の友人がいたんですけど、彼、死んじゃって…」というと、今度は彼がびっくりで、「加藤さんですか!」(ややこしいけど、中西夏之の回参照)

聞けば、我が亡き友は、彼の担当だったとか(肉体は消えても、よき交わりをくれる死者たちにも感謝!)

それやこれやで、以来、中西さんとは、ゆったりペースの不思議な御縁が続いている。拙著、『現代牧師烈伝』も購入してくださったと聞き、「中西さんには、最期に書いた茶道家牧師の章がよいかも?」

と伝えたところ、茶道の、ひいては日本美にある、風雅な気配を感じてくださったのか、昨年は日動画廊で、「空気の感触」という、素晴らしい油彩の個展をもたれ、ピアニストである奥様や、お子様共々、心豊かな時をいただいた。

その時にも感じたことで、今回も感じたこと。

東西の空気を、ごく自然にまとっている彼は、今、虹の色調の中にある

僭越ながら、『烈伝』のラストには、  W1

《 大丈夫。あなたにも、わたしにも、必ず祝福の虹がかけられると、約束されている 

と書いた私だった。その一年後、取り組んでいたキリストの黙想の最終日、登った某山の頂上に虹がかかり、落涙感謝(ここに辿りつくまで長かった!)。以来、私の心の中には(様々な揺れはあっても)ずっと虹がかかっている、と思っている。

そして新しい学びの段階に入った今……Ryo1

お会いした頃の作品とは、格段に澄んで明るい色調にある中西ワールドを見ることは、私にとってうれしく、今回、「水際」(みぎわ)というタイトルの作品もみつけて、にっこり(勝手に喜ぶ。中西さん、ありがとう!)

普通、水際と聞いて思い浮かべるのはブルーだが、今作は(菖蒲、アヤメ、杜若?花が燃える松明のよう)尾形光琳琳派のそれとは違う、深くて軽い、紫の水際!

実物を見たわけではないから、決めつけたくないが、今の私の中にあるものが、中西さんを通じて引き出されたのだと思っている。

イマジネーションを活性化させてくれるものは、すべからく感謝で、

そう…魂の深いレベルの自分とアクセスできれば、変化する一生も、このカレンダーみたいなものかもね…などとつぶやきながら、敬愛する友に向かって、ささやかなエールを送るのでした。

※肝心の開催場所を以下に。今回はエラク遠くて、御当地在、もしくは、出張その他で行かれる方限定の御案内です。

【ギャラリーかわにし】愛媛県西条市大町1639-2 ℡(0897)55-5768 

http://www.g-kawanishi.com/

2008年6月17日 (火)

光の踏み石編(3)

Moto もちろん、私と母との間には、楽しい思い出も、たくさん残っている。

→のようなことはなかったが、浴衣を縫ってもらったこともあったし、一時期、母が離れを改造して料理教室もやっていたため、子供の頃は、おいしいものも、たくさん食べさせてもらっている。

だが、それまで主だった事を決めてくれたのは、祖父や父だったのに、突然、家長になってしまった母は、押し寄せてきた様々な選択を、重荷に感じたのだろう。

土地の供養料を払うだけでは不安だったのか、今度は、易占の類に凝り始めたのだった。

母にその道を教えたのは、寺に嫁いだ叔母である。

『11月のギムナジウム』収録「小夜の縫う浴衣」より。by 萩尾望都 小学館文庫↑yominikui   gomen   kukikan   dake 

(※ちなみに母は七人姉弟の真ん中で、その内訳は、真言宗の寺に嫁いだ叔母に、曹洞宗の寺に嫁いだ叔母、クリスチャンの叔母に、神道を信じた叔母、新興宗教の教祖になった叔父と、政治家の叔父と、母)・・・・・*・・・・・・・・*・・・・・・・・・

ラインナップを見ただけでも、我が環境に混沌があったことは、想像していただけると思うが(私は叔父の選挙の際「○○をよろしくお願いします」のうぐいす嬢もやっている。)

ま、何を信じるのも自由だが、私にとっては、ありがたい教義を信じているという親戚が、少しも幸せにみえなかったことが問題だった。倒産という状況を受けて、皆の気持ちが荒んでいたこともあるが、(なんかおかしいんじゃないの?)と思った私は、生意気ざかりの年齢に入ると、次第に物事を斜に見るようになってしまう。

(※後年、比較宗教の対談本が出版することできたのは、この環境があったおかげだと思っている)

エネルギッシュで孤独な彼らは、日本文化の底流にある侘び・寂びの世界とは、おおよそ縁がない人たちに思えてならなかった。本家の蔵には、曽祖父が集めた美術品の類も多かったようだが、私が物心ついた頃には、そうしたものを鑑賞する空気は微塵もなく、多忙な商家に育った叔父や叔母は、きっと、祖母の愛を奪いあっていたのだろう。いつも愚痴や喧嘩が絶えなかった。

と同時に、50代で薬を発明してクリニックも開いた祖母が、音楽好きだったためにか、集まれば、見事なハーモニーで二部合唱。

Toon 私は、叔母たちの歌う♪「春のうららの隅田川~」を、何度も(首をかしげながら)聴いたものだった。

なんだかラテン系の犬神家(!)のような一族ではあるが、一時期、この一族から逃げたくてたまらなかった私は、明らかに、この血筋の一員である。

夢見がちで、過剰で、孤独がついてまわった彼らの姿は、私にもなじみ深いものであり、きよめ慰めを求めて、何世代もの間さまよい続けた先祖の中には、掘り起こされることを待っている、無尽蔵の物語が眠っているように思えてならなかった。

わたしがこれまでに看取った患者たちや、接客した客たちのように、懸命に生きた命の証を、なんとかして語り伝えようと、迫ってくるなにかがある・・・・・*・・・・・・・*・・・・・・・*・・・・・・・・・・*・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

↑illust  by  ehina →   ・・・・*・・・・・*・・・・・*・・・・・・P0001_2・・*・・・・・・・・・・・・・・・・・       R1

その気持ちをどのような形に収めるのが最もよいことなのか、まだ戸惑いもあるのだがR2・・・・・・・ *・・・・

もとい。私にとっては、母に易占を吹き込んだ叔母が、住職夫人だったことも、奇妙に思えてならなかった。

寺なら、迷える人に対して“仏の慈悲”か“悟り”を説くのが当然だろうに、叔母にはそれができなかった。

多くの檀家や大伽藍を持っていたにも関わらず、叔母自身の中にも、癒されることのない闇があったのだろう。姓名判断や方位学、家相や四柱推命の本を母に与えた叔母は、一人で闇を背負いきれなかったのか、母共々、人の品定めに精出すようになる。

物事がうまくゆかない時は「日が悪い」。人といざこざあれば「相性が悪い」。病気になれば「方位を侵した」の繰り返しで、母と叔母は次第に、自己責任という言葉を忘れた人のようになってしまう。

メゾソプラノの軽やかな声で、《ラ・パロマ》や《シューベルトの子守唄》を歌う時、母は美しく、無邪気な世界に遊ぶ天使のような人だったが、いったん、そちらの世界に入ってしまうと、恐山のイタコか、呪術師ようになってしまうのだった。

なにより疑問に思えたことは、あれほどの時間をさいて勉強したにも関わらず、母も叔母も、そのツールを使って、より幸せをなれたとは、少しも思えなかったことだった。

Goto_2 Goto

Goto_3

     goto  retto  ni  aru  yume  no   youna  kyokai  

音楽だけでなく、世界には美しいものがたくさんある

だが、私を含めた多くの人は、自我による投影を繰り返して、ありもしない闇を作り、昨日を憂いて、明日を恐れ、今という時を、喜びの機会としてみることを拒んでしまうことが、多々ある。

変転するこの世界は空であり、世界それ自体には意味がない、といえるのかもしれない。あるのは世界を解釈する目であり、世界がおぞましいのではなく、おぞましいものしか見ようとしない自身の目に、問題があるのではないだろうか。で、あれば、真の解放は、この目(認識)に関わっているのだと…)

などと、究極的な解放について思い巡らすことなど、できるはずもなかった私は、人一倍、感が強い子供だったのだろう。知らず、母の世界を取り込んでしまい、幼稚園までの明るさはどこへやら、たちまち、うつむく少女に変わってしまう。

当時の母の自慢と希望は、優秀な姉だった。子供の頃から自己実現の道をめざしてまっしぐらに進んだ姉は、母に反応することもなく、本人いわく、《挫折ゼロ》で来た人だが、

こうした姉の生き方も、社会に出てしまえば、one  of  themでしかなく、《人生大学》で、素晴らしい方たちに会い続けるようになった私は、子供時代の点数評価が、絶対でないことにも気づいてゆく。

しかしそれとて後のことで、世界が狭かった頃の私は、小学校に入学すると同時に、三歳上の姉の圧力を、いたるところに感じるようになる。

私のまわりには、様々な圧力が渦巻いていた。喜びを見出すためには、いささかの労苦が必要な環境だったが、それでも今の私は、“この環境こそ”私に必要なものだったと思っている。

魂のレベルでは、人はふさわしい親を選んで生まれてくるのではないだろうか?それぞれの人は切なる願いを抱いて世に生まれ、その願いが最も実現されやすい経路であるところの、親兄弟を選んで生まれてくるのではないだろうか。

私の場合、子供時代は、こうした両親や親戚のもとで、後には、人を看取り、酔客をあやし、病院やバーを学びの場とする極端な道を選んできたわけだが、知らず、過酷シリーズを繰り返した私は、もしや“特別な喜び”を見出そうとしていたのではないだろうか・・・・・・・・*・・・・・・・・・*・・・・・・・・

もちろん、毎回、そうせざるをえない気持に押されてのことではあったが、意識下には、一切の条件を越えてある、純粋で、強靭な“普遍の喜び”を求める気持ちがあったと思えてならないのである・・・・・・*・・・・・・・・*・・・・・・・・・・*・・・・・・・・・・・・*・・・・・・・・・・・・・・

(ということがわかってくると、人は与えられた環境を受け入れ、被害者意識を捨てることができるようになる。短い人生、だれも被害者意識、加害者意識に引きずられて生きるのは嫌だろう。ゆえに、この小さな連載も、苦労話をすることが目的ではなく、これまでのコラムや絵物語と同じように、解放を促すためのものであることを、強調しておきたい)

等々、寄り道をしながら、時空の変化も織り交ぜながらで、ややこしいことしきりだが、今は先を急がず、過去トンネルの掘り出しを、もう少し、続けることにしよう。


そう…塵にも等しい、ちっぽけな虫は、明るい戸外を避けるかのように、闇の中へと入ってゆく。まるで、その闇こそが、最初の変化を生み出す産室であると知っていたかのように、内へ、内へと入ってゆく…

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