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2008年12月13日 (土)

待降節のヒヤシンス

再び、辺見庸さんの新刊について。本題に入る前に、辺見さんの御宅に通う、ホームヘルパーの方に拍手。

御病気をもつ作家の心を察し、頼まれたわけでもないのに、『くまのプーさん』や『ピーターラビット』の絵本等に加えて、『マザーテレサ・愛の言葉』も置いてゆかれたと知って。

こういうことのできる方は少ない。素晴らしいな。



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B0a6a4c8c4cba4dfa1a2a5aba5d0a1bca1fという楽屋話も書かれている本書は、《死刑廃止の国際条約の批准を求めるフォーラム90’》主催の会で話された、辺見さん御自身の講演をもとにして書かれた作品である。


そして読者である私は、“すべての人間の中には神を反映する光がある=尊い”と思っており(当然だけど)人が人を殺すことは×と思っている人間である。

かつ、私は思春期に強い“自分殺し”の願望をもったことがあり、ゆえにメディアを通して悲惨な事件報道を見聞きするたび、他人事とは思えないものも感じている。

ほんの少しの加減で、自分の人生にもにもありえた事と思うからだ。

加えて、悲惨な報道に触れるたび、以前は被害者側の気持ちに立ち、(こんな幼い子が…)とか(家族全員…)と思っていたのだが、いつ頃からか加害者側にも気持ちが向き、(こうせずにはいられなかった)人の痛みについても、思い巡らすようになっている。

ヘビーな話題で恐縮だが、読んでしまった以上、無視できないものを感じ、本書にまつわるあれこれを考えてみた。



まず、お粗末な想像力を駆使して(正当防衛によるものは除く)殺人事件の加害者の人生に思いを馳せれば…


多くの場合、彼らは自身の話を親身に聞いてくれる人がもてなかった。「あなたは尊い存在だよ」と知らしめてくれる人も見出せず、に対する思いも希薄なまま、事至り、親族はじめ、関わる人たちに長く重い時間を持たせることになった……(大雑把な考察で申し訳なく思いつつ)

被害者側にも、もちろん、尊い人生があった。突然の災難に巻き込まれて恐怖を味わいながら、地上時間が切断され、愛する人たちとの別れも余儀なくされ、親族はじめ、関わる人たちに、長く重い時間を持たせることになった……

双方、残された御家族の気持ちは、いかばかりか。加害者側の関係者が「法」ではなく、世間からのバッシングで、自殺においやられることもある。

被害者側の関係者も、ノイローゼや自殺がありえる。そして加害者が「もし」死刑になったとしても、愛する者は帰ってこない上、さらに一人死んでしまったという空しさが生まれ、哀しみを深めた彼らは、多分、別の形での癒しを必要とする…

というように、人間の尊厳を貶め、双方に壮絶な苦しみを招く殺人は、《個人レベル》では最も忌避すべきものとされているわけだが、反面、《国家レベル》では、許されてしまう場面もあり、辺見さんは、その欺瞞について語られている。



その代表格といえる戦争と死刑について、私も考えてみた。


そうだ…1人殺せば殺人者。5人殺せば殺人鬼。20万人殺せば英雄になりうるのが人間の社会であり、国家による大量殺人に関わった場合、勲章さえ貰うこともあるのだと。P10701805b55d

実に、戦争とは、「あいつの金が欲しいから、殺してでもとってやる」という《強盗殺人の拡大版》であり、個人レベルでは、おおよそ受け入れがたいこの感覚は、いったいどういう精神構造が支えていたのかと考えてみたら、かつて見た、“ナチスのアイヒマン裁判”のドキュメンタリー映画、『スペシャリスト』を思い出した。

閻魔様も恐れるような、鬼瓦風の男が現れるかと思いきや、画面には、きりっとシャープなエリート・ビジネスマン風が現れて、ビックリ!

アイヒマンは、「自分は上からの命令を忠実にこなしただけだ」(それのどこが悪い)といい放ち、効率いいガス室(!)の開発をはじめ、何百万人のもユダヤ人を殺した彼の行為は、歴史が証明しているが、あぁ、近代以降の戦争を支えてきたのは、《他者に対する想像力》をなくした者の、あまりにも律儀な、この忠誠心だったのかと知ってゾッ…

戦争は、人道的にも、神の道にも反することが「当然」とされてしまうわけだが、それでも希望は失せていない。個人においてそうであるように、自国の暗部を徹底的に検証してゆくことで(ドイツがそうしたように)現実を変えてゆくことも可能である。

そして辺見さんは、国家による殺人である戦争のみならず、日本では今だ当然とされている「死刑制度を廃止すべきだ」といわれ、私もこれにうなづいたのだ。


といった途端、どこからか“匿名手紙”のような声が聞こえてきた。

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「この女は、何を夢みたいなバカをほざいているのか?」笑い声あり、「殺人鬼を野放しにしろってのか?」怒り声あり、「家の子が殺されたら、そいつも絶対殺す」罵倒あり、「犬畜生にも劣るやつらは、死刑以外にない」

欲求不満が渦巻く社会では、様々なスケープ・ゴードが要求されるものだが、このブログも非難轟々、炎上ならぬ、アクセスゼロになるのかも?

だが、そういう皆さんが、以下の“事実”を知ったら、どう思われるだろう?



《世界の国々の多くは、すでに死刑制度を廃止している》



本書には、EU(欧州連合)がHP上に掲載している、《死刑廃止宣言》の引用もあり、2002年5月以降、EUの全加盟国が遵守しており、全人類に尊厳があると明記した宣言文には驚愕!

Img_1593381_45623809_0 アムネスティによれば、2008年11月現在、アメリカのいくつかの州をはじめ、世界137ヶ国が死刑を法律上、もしくは事実上廃止しており、残り60の国と地域が死刑を適用しているものの、実際に行っている国は、さらに少ないとのこと。

(※EUの宣言を絶賛された辺見さんは、ヨーロッパがこの視点を、戦争に適用していないことを批判しておられる)


そして私は、これまで自分なりに、人間の苦悩や喜びについて考えてきたつもりだったが、人生に手一杯だったとはいえ、“小さな戦争”ともいえる死刑について考えが及ばなかったことを恥じた。

かつ、多くのジャーナリストの方々にもお会いしてきたが、この件について話された方は、誰もいなかったとも。(もっとも、それを話せる場でもなかったが)

つまり、ヨーロッパ等では、幼児を殺しても、テロリストでも死刑にならないわけだが、いつか日本もそうなるかもしれない…といったら、この国の人々は何というだろう?


「じょーだんじゃねー!そんなことになったら、みんな殺しまくりの、殺人鬼だらけの国になっちまう」

……そうだろうか?人間の尊厳第一だが、死刑制度は、殺人を抑止するために、有効かつ不可欠なものなのだろうか?少年法を改正して処罰年齢を下げ続ければ、少年犯罪も減るというように?

…私はそうは思えない。身をもって知っているが、人は人として尊ばれない限り、どんな懲罰が待っていようと、怒りを蓄え続けるものであり、蓄えたエネルギーは出口を求め、「ふさわしい場」を得て、「必ず」なんらかの行動を起こすものだからである。

また日本では、かつては斬首等、公開処刑もあったが、今では人知れず行われている。なぜだろう?行う側も残酷でよくないという、“やましさ”があるからではないのか?江戸時代には仇討ちもあったのに、なくなった。なぜだろう?果てしない恨みの連鎖の不毛に気づき、やめた方が懸命と気づいたからだ。


別の声も聞こえてきた。Chr_2

「ノー天気なことをいってるが、おまえは殺人犯が隣りにいるかもしれない暮らしが怖くないのか?そんなことになったら、俺はおちおち眠ってもいられない。町内で夜警団もつくる必要があるし、喜ぶのはセコムだけだ」


怖い…?でも私はすでに会ってしまったのかもしれない。内的光を見せてくれたホームレスの人たちの中にも、もしかすると、殺人者がいたのかもしれない。

また、知らずにもてなしたお客様たちの中にも、よんどころない事情で、人を殺めた人もいたかもしれない。


誰も「自分は殺人犯です」なんて札をぶら下げて歩かない。「汚職しました」とも「詐欺師です」とも、ふれまわらない。私も含めた人は皆、何度もついた嘘や、挫折や失敗と思える、自分にとって都合の悪いことは、隠して生きている。

もちろん、それを隠すことを責めることはできないし、(多くの人は、ヨーロッパは二度と行かないとはいわないだろうし)人が人と出会う度に(この人犯罪者?)などと、疑心暗鬼になっているとも思えないのである。

どのような社会がベストなのか?世界はなおも試行錯誤の途上にあるわけだが、少なくとも(変り種の)クリスチャンで、日本人である私自身は、人間を(個人レベルでも、国家レベルでも)殺すことは、神の創造の否定だと思っており、ゆえに(時に深い情動に揺さぶられ)被害者側の大きな痛みを忖度したとしても、死刑制度は廃止すべきだと、思わざるをえないのである。


加えて辺見さんは愛の人として信じじうる一人に、マザー・テレサの名もあげているのだが、その件に関しても少し。

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本書の引用にもあるように、マザーは《飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からもケアされていない人のために》働かれた方だが、


私は、そうした人たちの中に、キリストを見ていた方だとも思っている。

なぜなら十字架(死刑)にかけられたキリストは、裸にされ、鞭打たれ、唾を吐きかけられ、侮られ、血糊と悪臭にまみれ、誰ひとりケアすることが許されなかった、ぼろ屑のような状態だったのだから。

しかも、人間として最も深い孤独を知りえたキリストは、十字架上で「神よ、なぜ私を見捨てられたのですか?」と、絶望と希望が混在するギリギリの言葉を、絶叫してもいる。

だから辺見さんが示されたように、マザーも「神よ、あなたはどこにおられるのですか?」と叫んだとしても不思議ではない。(大きな使命を与えられた人は、見合う試練も与えられるものゆえ)

そしてキリストは、その絶叫をも含む生涯を通して、「愛の完成者」の道を示したのだが、十字架に至るまでの間、逃げることなく、武器に頼ることなく、言葉と行いによって真理を示し、結婚式に招かれれば宴席で飲み食いし(きっと踊っただろう)さらには、自分を裏切ることになる弟子たちをも「友」と呼び(!)その汚れた足を洗って、「あなたたちも互いに洗いあいなさい」といい、折々(人間でもあったのだから)笑っていたのである。

だからマザーも(巷のシスターにさえなりそこねた私がいうのも、おこがましい限りだが)魂の暗夜にとどまることはなかったはずだ。


私の乏しい経験から省みても、マザーが人間存在の最も深いところから放たれるに照らされていたことも、想像Img_1617004_34297146_0に難くない。そしてそれは本当に大きな喜びだったのだ。

だから辺見さんがいわれるように、私はマザーの目が、常時「負け犬のような、臆病ものの、失敗者のような目」だったとは思わないし、またそのような目を生きるよう、他者に薦めようとは思わないのである。


私は思春期に心を病んでいたから、病む人たちのもとにいったのだ。(きっと、共に癒されたかったのだろう)だから他者の痛みを知るために、飛び込んだのではなく、またその痛みを知らさんがため、他者に「絶望を知れ」ともいいたくない。


人は生きるために、日々様々な労苦を背負っている。そして流された涙のすべてを御存知の神様は、私たちが世にあって「真の喜び」を選択できるよう、ふさわしい時、ふさわしい形で、それぞれの人に、試練を通した気づきも与えてくださっている。

死刑について考えることができたのも、ようやくだったが、私はこの気づきに感謝こそすれ、今後も「負け犬のような、臆病者のような視線で」歩もうとは思っていない。


私は勝ち犬でも、負け犬でも、成功者でも、失敗者でもなく、世間の人がどう評価したとしても、今後も「私は私らしく」毎回出会う方たちと、願わくば友になってゆければと思っている。

キリストやマザーが、御自身の生涯を通して闇の中にある光を示してくださったように、ちっぽけでもいい、私なりに内的な光を掲げて、光のもとにある交わりを大事にしたいと思っている。(長年、自分を殺したがっていた、この私が!)



以下は大好きな本、『歓喜の街カルカッタ』(ドミニク・ラピエール著・河出書房新社)から。マザーが起こされた《神の愛の宣教者会》の本部の壁には、一遍のヒンドゥーの詩が掲げられていたとあったので。

   

   糧がふたきれあれば

   ひとつを貧しい者にあげなさい

   ほかのひとつを金にかえ

   ヒヤシンスの花を買いなさい

   あなたの心を肥やすため

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《自分のことも大切にして、神様がつくられた世界と響きあう喜びを忘
れないように》



思い切って書きました。皆さん、ヘビーなテーマにお付き合いくださり、ありがとうございました。この件に関してどう思われるかは、あなたまかせですが、来年から、議論百出の裁判員制度もはじまりますので、これを機会に、いろいろ考えてみてくださるとうれしいです。


そして今はキリスト教暦によれば、イエス様の降誕を待ち望む、待降節と呼ばれる季節ですが、皆さんは、どのように過ごされていますか?

私はまず、辺見さんをはじめ、尊い闘いの中にある方たちや、病床にある方や、愛する人たちと別れた方や、獄中にある方や、その方を恨み続けてやまない方や、疲れて果てて、擦りきれている方たちのために、祈りたいです。



《どうかそのような方たちの心の中に、マザーも愛でられたであろう、ヒヤシンスの花が咲きますように》C0133346_13435584_2

                


                 Peace   for  Everybeing   

             name  in   Juses

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