記号名
師走。新しいジグソーパズルのピースを拾い集めるように、あちこち調査。
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ゆえあって、浅草・鷲神社の酉の市へ。モロ庶民派神社の三の酉は大混雑で、押し合いへし合いする人たちに混じり、もろもろ観察。
いつの世も、世間には、御利益を求める人たちの切なる願いが渦巻いている。「福をかきこむ」縁起物の熊手や、御札が飛ぶように売れてゆくのを見ながら、マニラの下町で見たキアポ教会の、ブラック・ナザレン祭の景色を思い出す。
あそこでは、マリア様のメダイや、ロザリオだけでなく、怪しげな薬の類も売られていたが、買ってゆく庶民感情としては、浅草もマニラも同じではないか。三社祭で神輿を担ぐ人も、十字架の山車に群がる人も、
浅草のお兄さんたちの威勢のいい声を聞きながら、熊手は買わず、幸せを外に探すことと、内にみつけることについて思う……
帰路、去年の熊手を納めるために、“聖火ランナー”のように掲げ持った、5歳くらいの男の子が、スキップする姿を見る。快晴の午後、並んで歩くおじいちゃんも、明るい日差しの中で笑顔。
「熊手ではなく」彼らの姿そのものに幸せをみた私は、互いの「内にある光」の響きあいを感じて、目が合った瞬間、ニコッ。象徴や形の違いを超えて、とても自然な交流。これだね、この感じ。
ふと見ると、沿道から離れた小さな駄菓子屋も、めちゃ混み状態。お酉様のおかげで周辺商家が潤っていることは確かだが(よかったね)といいたいところ、カルメラ200円、杏飴300円、ポン菓子100円等を売っている老夫婦は、常とは違うリズムで押し寄せてきた客と、小銭の対応に追われ、疲れ果てていた。
目が合っても、さっきの男の子たちとのような弾む響きあいがなく、生きることに伴う痛みを覚えつつ、老夫婦の中にもある光を思い、無事を祈って次へ。
●ジェーン・グドールの来日講演のため、一ツ橋記念講堂へ。彼女は若き日、単身アフリカに渡り、驚異的な忍耐力と観察力をもって、チンパンジーの生態を研究し、ケンブリッジで学位を取得した後、人間を含む「すべての生き物」にとっての、よりよい環境づくりのために活動中の人である。
もちろん、彼女はアフリカの危機的状況を知っている。
多国籍企業や、世界の軍事産業のしていることも知りつつ、70代になった今でも講演(年間300日!)のみならず、Roots & Shoots (根と芽)の活動等で、世界中を動き回っていることに驚く。
加えて彼女の顔は(野生動物を相手にしてきた人だから、さぞやワイルドだろうと思いきや)穏やかさと気品に満ちており、醸しだされる、あたたかくて繊細な気配にも慰めを覚える。
宗教家や平和運動家が(既成概念と闘っている以上、無理もないが)少しも平和に見えないことはよくあることだが、少なくともジェーンは、悲惨度が増してゆくように思える世界で、チンパンジーからはじまった活動を通し、穏やかで、ゆるぎない喜びと生きているように見える。
犬でも猫でもチンパンジーでも、ひとつの対象に向かって「無心の愛」を注いでゆく時、おのずと現れてくるものがある。そしてその愛が、また人と人を繋いでゆく。
ジェーンはメデイアの前面に出たくて出たのではなく、森に籠もりぬいたことで、出ることになってしまった。「地域に住む人たちを大切にすることと、政府を喜ばせることを同時に行うことは難しい」といいつつ、与えられた役割を(森で得た喜びと共に)淡々とこなしているように見える。
第二部は「森と海~生命のつながり」と題したパネルディスカッションで、会に招待してくださった、オーシャンファミリーの海野義明さんも登壇。
宮城県で牡蠣の養殖をしておられる漁師の方も発言されたが、彼の父上は、海を守るために「森に木を植えた漁師」として知られる方で、ひとしきり牡蠣談義。
海野さんは、沖縄白保のサンゴを守るため、座り込み等の反対運動もされた方で、沖縄のおじぃや、おばぁたちとの交流も語る。ジェーンいわく、大人たちは日々の選択ミスによって、子どもたちの未来を奪い続けている。かつ、どんな活動も、喜びなしには続けられないと。
ほか、全人類が北米に住む平均的アメリカ人のような暮らしを望んだ場合、地球は、あと5個か6個必要だとも。
ウーム…私見をのべれば、物は愛のかわりにならないので、人が物に満ちたりることはない。もちろん、最低限の物は必要だが、人が満ち足りた暮らしをするためには、どうしたって愛(アガペー)が必要なのだ。
そして世界は愛の欠如のために、多くの破れを抱えており、様々な依存症的症状を見せて、「もっともっと」とねだり続けている。
本当にひどい話だが、近年の食糧危機は、市場価格の人為的な操作によって起こっているということは、もはや周知の事実だ。
つまり、だれかが飢えて死ぬことより(飢えている人たちの存在は知らないふりをして)食べ飽きているものたちが、「さらに儲けるために」市場操作をしているという事実。
そうした行為は、まわりまわって自分たちの首を絞めることになるのは明らかなのだが…
という、人間のエゴが露わになっている時代に(ゴマメの歯軋りのように思えるかもしれないが)ジェーンのような人がいることは希望だ。静かに溢れ出る泉のように、力みのない彼女の強さがうれしい。
●新宿でクリスチャンの旧友と会食。互いの近況や、性同一性障害をもつ牧師のこと等話すうち牡蠣が出て、先ほどの会の、気仙沼の牡蠣との響きあいを覚えて喜ぶ。
※私はグルメではない。過去、薀蓄叔父様たちと御付き合いさせていただき、ものの味も分かるつもりだが、それにこだわりたくない。どんなものでも、美味しく食べられたら十分。そしてその際の喜びは、味覚だけによらないのだ。
私はなにより、神様からのギフトのような、様々な響きあいがうれしい。「なぜ、あの人を知ってるの?」「どうしてここにあなたがいるの?」これ式のびっくりだらけできた私は、世界の食糧事情を思い、自分なりにできることをしつつも、今(ラーメンでも、レバニラ定食でも)えがたい友と食事をしている、そのことがうれしい。
●帰りの電車内で、気になる作家、辺見庸さんの新刊、『愛と痛み』(毎日新聞社)を読み始める。
経営者時代、私は辺見さんの御著書を何冊か拝読したあと(僭越にも)自分と似た感性を感じて、拙著と店の新聞をお送りしたのだが、(当然ながら)異なる部分も覚えて、つかず離れず、一ファンとして、大切に関わりたい方と心していた。
その辺見さんが、今作で「愛」という言葉をタイトルに使われたことは、うれしい驚きだったが、内容に関しては、とてもひとことでいえず…しかし“本当に大事なテーマ”ゆえ、改めてまた。
現時点では、御病気を持つ辺見さんが、お元気であることがうれしく、聞けば、先頃の講演会では三時間も(!)話されたとか。その上で御自分を「PPG」(パーフェクト・ポンコツ・爺さん)といわれたそうで、思わず微笑。
名前って不思議。紆余曲折をへて、ようやく本名に戻ったのに、いたずら好きな私には「猫名」をはじめ、どんどん、新しい名前が増えてゆく。
そこで、ひらめきのまま、自身にも記号名をつけることにした。
「DOS」(どーしようもない・おばちゃん・少女)
「SCA」( Second Class of Angle )
ってのは、ドス・スカ…どうですか?
tori de hajimatta kara last mo hane →
……人の心の奥底にある「愛」を呼び覚ましてくれる音が、すぐそこに近づいている季節、やってくる音は、きっと、あなたの心の扉もノックしてくれることでしょう…
皆さんにとって、よいひと月でありますように!
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