« 感謝に添えて | トップページ | 記号名 »

2008年11月 9日 (日)

渋谷・開拓編(4)

517d3czjcnl_2 映画がらみのイントロで話を続けてゆくが、私は不思議な流れで、オスカー女優のキャサリン・ヘップバーンのファンの方とも、御縁をいただいている。

処女作刊行後、抱えた自著をさばくべく、静岡高校の校長だった叔父に電話をしたところ、「卒業生の一人が朝日新聞社の営業にいる」といわれて、のこのこ築地まで訪ねたことが、きっかけだった。

お会いしたその方から、「僕より朝日ジャーナルの編集部にいる友人が適任でしょう」といわれて、当時、副編集長だった、岩城元(はじむ)さんを紹介していただいたのだ。

リベラル硬派の岩城さんは、拙著を書評に取り上げてくださった後、お酒がメチャ強いこともあって、渋谷の店に、即、御来店。キャサリン・ヘップバーンの「手の皺に美しさを感じます」などと、ユニークなことをいいつつ、ジャーナル誌面でも、艶笑エッセイを書かせてくださる。

324

その際、私のペンネームは、“岩菜うに”とした。(友人の一部は、私のことを、今も“うにちゃん”と読んでいる。由来・略)すると「この、うにってのに会わせろ」と、当時の編集長だった筑紫哲也さんが御来店。筑紫さんは拙著も購入してくださり、店がハネた後は、編集部の方々と一緒に、はしご酒。

「きみ、なんで、うになの?」「これから、何を書きたいの?」………以後 誌面で、“元気印の女たち”のシリーズをはじめた筑紫さんとは、パーティ会場でのバッタリも多々あって、奇妙なジャンプを続ける“うに”のことも、楽しく励ましてくださる。そして私は、せめてものお返しにと、経営者になった後々までも、店で発行した新聞を、毎月、筑紫事務所に送り続けたのである…(御冥福を祈ります)

筑紫さんの麻雀仲間でもあった岩城さんは、その後経済部に移動。学芸部ならともかく、もう縁切れね…と思っていたら、今度は「店の景色を織り交ぜながら、サラリーマンを励ますコラムを書いてください」といわれて、なんと、夕刊紙上で、週一連載をいただいてしまう。

(つい数年前まで、修道院で泣いていたのに…)


人生、何がおこるかわからない。店をもつこと、失うこと、人と会うこと、別れること。試練と恵みはセットでくるものだが、神様は、誰に対しても思いもかけない明日を用意していてくださるのだから、自身の明日を決めつけず、「これは!」と思ったことはやり続けるのが正解!

なんてことを思うようになったのは、つい最近で、深海魚が急浮上したような当時は、《日々の奇跡》に、ただアップアップ。

全国紙とあって、さすがに「うに」はやめて「彩子」にしよう。しかし「サイコ」「サエコ」と読み違いも多く、街の名を入れれば「らしくなる」といわれ、結局、コラム用の筆名は“渋谷・あやこ”になってしまう。

なのに連載が続くにつれて「渋谷さん」と呼ばれるようになり、いつしか私の公式名は、「中黒」が消えて、“渋谷あやこ”になってしまう!

バブル時代だった。

Pict00153_5 こんなことがいつまでも続くわけがないと思いながらも、店にいた女の子たち全員が、お客様から、夜毎、チップやタクシー券をもらっていた。

酔客の戯言ではあるが、不動産屋のおじいちゃんから、TV番組のような台詞もきかされた。

「わしとつきあってくれたら、マンション買ってやる」

(は?)・・・・・・・・・・(この種の誘いに乗れる女だったら、こんな苦労はしていません)

Fire_rainbow

並行して、コラムは一年間連載され、朝日の経済部や外報部の方々が、どっと来店してくださり、店の二階が抜けるのでは?という時もあった。しかもこの時期、御縁をいただいたジャーナリストの方々は、朝日系列だけではなかったのだ………… 某日、岩城さんから、「いい店がありますから」とお声をかけていただき、新宿警察の近くにある、《サツまわり》専門の記者たちが集う店を訪ねたところ、なんと、その店で、かつて読売新聞社におられた、ノンフィクション作家の、故・本田靖春さんとお会いできたのである!

本田作品の大ファンでもあった私は、さすがに緊張。しかしお酒の力にも助けられ、隣りあわせた本田さんから、正座するような気持ちで、貴重なお話を多々うかがう。

しばらく後、また行ったら、今度は店のママが(いつも、お花や食べ物を、どっさりお土産で持たせてくれた英(はなぶさ)のママ、ありがとう!)前回プレゼントした拙著を、本田さんに差しあげたと聞き、大々恐縮!

そして今度は本田さんが、もったいなくも、大阪読売新聞社の編集局次長として名を馳せ、その後、独立された、ジャーナリストの鑑、故・黒田清さんを紹介してくださったのである!

後年、筑紫さんの番組にも度々出演されていた黒田さんは、徹底した知と情の方だった。“えーしのボン”の名残のある、鋭く、あたたかーい方だった。


「あやちゃん、がんばりィや。けど、ボチボチな」

と、絶妙な励ましをくださり、書き続けるよういわれ、御馳走になったこと数知れず…

でも…(筑紫さんも含めて)御三人とも、もう故人なのね…世間的には、大先生というべき方々なのだが、どなたも権威主義とはほど遠く、生活感ゼロの、冴えたお兄ちゃん・おとーちゃんといいたいような、ステキな方々だった。そして御三人によくしていただいた私も、ン歳になってしまったのだが、心から感謝していいたい。「私、あまりにボチボチですが、なんとかやっています」

Kwl_001_2 ※ちなみに、大恩人の一人である、岩城さんはお元気で、リタイアされた現在、中国の桂林で、“東方語言塾”という、語学学校を経営しておられる。(中国語・韓国語・日本語)御興味のある方は、岩城さんの以下のブログを参照のほどを!

http://d.hatena.ne.jp/nan-no

見るもの聞くもの、びっくりの連続だった渋谷バイト時代は、都合4年間続いた。(店は立ち退きで消えた)処女作を刊行すると同時に、かくも多くのジャーナリストの方々にお会いできたことは、幸いとしかいいようがなく、この時期、私は、社会に対する視点の「基礎」が、築かれたのだと思っている。

加えて、朝刊を開いて署名記事を読み、「昨夜のお客様だ!」という喜びをいただくだけでなく、取材方法や裏話、役所の実態や、スクープ記事等、新聞表現にまつわる様々なエピソードを聞かせていただいたおかげで、(私も書くぞ)という思いを、持ち続けることができたのだとも。

そういえば…本田さんがいわれたな。「昔はfaxもなくて、新聞社の屋上に鳩をかっていたんだよ

私は無意識のうち、私なりの表現方法を探り、大先輩諸氏にお会いする度、鳩が豆鉄砲をくらったような顔で、社会人夜間大学(!)の深夜講座で、学び続けたのだ。

そして思う。かくも素晴らしい夜大の先生たちにお会いしたのに、我が刊行物の少なさたるや…


筑紫さんの訃報をきいて、「しまった」と思ったのは、さらなる作品を、お届けすることができなくなってしまったからだ。より私らしい、より深い作品を送りたいと思いつつ……ということで、突然ですが、開拓編はこれでおしまい。お世話になった方は、他にもたくさーんいますが、ゴメンナサイをいって、今後、ブログは「ぼちぼちモード」にきりかえ、来月またね!

いきなり祈る。

神様、すばらしい出会いを、かつても、今も与えてくださり、ありがとうございます。

どうか私が、いただいた学びの“すべてを”生かし、あなたによるところの「真の物語」を書き抜くことができますよう、お導きください。そしてその物語に出会う私自身と多くの方々が、《分離ではなく一致》の喜びに導かれますよう、愚かなものの手の技を祝してください。

というわけで、またしてもの深海へ。時がよくても悪くても、書きまっせ!



※第二章・了

|

« 感謝に添えて | トップページ | 記号名 »

my story」カテゴリの記事