光の踏み石編(3)
もちろん、私と母との間には、楽しい思い出も、たくさん残っている。
→のようなことはなかったが、浴衣を縫ってもらったこともあったし、一時期、母が離れを改造して料理教室もやっていたため、子供の頃は、おいしいものも、たくさん食べさせてもらっている。
だが、それまで主だった事を決めてくれたのは、祖父や父だったのに、突然、家長になってしまった母は、押し寄せてきた様々な選択を、重荷に感じたのだろう。
土地の供養料を払うだけでは不安だったのか、今度は、易占の類に凝り始めたのだった。
母にその道を教えたのは、寺に嫁いだ叔母である。
『11月のギムナジウム』収録「小夜の縫う浴衣」より。by 萩尾望都 小学館文庫↑yominikui gomen kukikan dake
(※ちなみに母は七人姉弟の真ん中で、その内訳は、真言宗の寺に嫁いだ叔母に、曹洞宗の寺に嫁いだ叔母、クリスチャンの叔母に、神道を信じた叔母、新興宗教の教祖になった叔父と、政治家の叔父と、母)・・・・・*・・・・・・・・*・・・・・・・・・
ラインナップを見ただけでも、我が環境に混沌があったことは、想像していただけると思うが(私は叔父の選挙の際「○○をよろしくお願いします」のうぐいす嬢もやっている。)
ま、何を信じるのも自由だが、私にとっては、ありがたい教義を信じているという親戚が、少しも幸せにみえなかったことが問題だった。倒産という状況を受けて、皆の気持ちが荒んでいたこともあるが、(なんかおかしいんじゃないの?)と思った私は、生意気ざかりの年齢に入ると、次第に物事を斜に見るようになってしまう。
(※後年、比較宗教の対談本が出版することできたのは、この環境があったおかげだと思っている)
エネルギッシュで孤独な彼らは、日本文化の底流にある侘び・寂びの世界とは、おおよそ縁がない人たちに思えてならなかった。本家の蔵には、曽祖父が集めた美術品の類も多かったようだが、私が物心ついた頃には、そうしたものを鑑賞する空気は微塵もなく、多忙な商家に育った叔父や叔母は、きっと、祖母の愛を奪いあっていたのだろう。いつも愚痴や喧嘩が絶えなかった。
と同時に、50代で薬を発明してクリニックも開いた祖母が、音楽好きだったためにか、集まれば、見事なハーモニーで二部合唱。
私は、叔母たちの歌う♪「春のうららの隅田川~」を、何度も(首をかしげながら)聴いたものだった。
なんだかラテン系の犬神家(!)のような一族ではあるが、一時期、この一族から逃げたくてたまらなかった私は、明らかに、この血筋の一員である。
夢見がちで、過剰で、孤独がついてまわった彼らの姿は、私にもなじみ深いものであり、きよめと慰めを求めて、何世代もの間さまよい続けた先祖の中には、掘り起こされることを待っている、無尽蔵の物語が眠っているように思えてならなかった。
わたしがこれまでに看取った患者たちや、接客した客たちのように、懸命に生きた命の証を、なんとかして語り伝えようと、迫ってくるなにかがある・・・・・*・・・・・・・*・・・・・・・*・・・・・・・・・・*・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
↑illust by ehina → ・・・・*・・・・・*・・・・・*・・・・・・
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その気持ちをどのような形に収めるのが最もよいことなのか、まだ戸惑いもあるのだが
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もとい。私にとっては、母に易占を吹き込んだ叔母が、住職夫人だったことも、奇妙に思えてならなかった。
寺なら、迷える人に対して“仏の慈悲”か“悟り”を説くのが当然だろうに、叔母にはそれができなかった。
多くの檀家や大伽藍を持っていたにも関わらず、叔母自身の中にも、癒されることのない闇があったのだろう。姓名判断や方位学、家相や四柱推命の本を母に与えた叔母は、一人で闇を背負いきれなかったのか、母共々、人の品定めに精出すようになる。
物事がうまくゆかない時は「日が悪い」。人といざこざあれば「相性が悪い」。病気になれば「方位を侵した」の繰り返しで、母と叔母は次第に、自己責任という言葉を忘れた人のようになってしまう。
メゾソプラノの軽やかな声で、《ラ・パロマ》や《シューベルトの子守唄》を歌う時、母は美しく、無邪気な世界に遊ぶ天使のような人だったが、いったん、そちらの世界に入ってしまうと、恐山のイタコか、呪術師ようになってしまうのだった。
なにより疑問に思えたことは、あれほどの時間をさいて勉強したにも関わらず、母も叔母も、そのツールを使って、より幸せをなれたとは、少しも思えなかったことだった。
goto retto ni aru yume no youna kyokai
音楽だけでなく、世界には美しいものがたくさんある。
だが、私を含めた多くの人は、自我による投影を繰り返して、ありもしない闇を作り、昨日を憂いて、明日を恐れ、今という時を、喜びの機会としてみることを拒んでしまうことが、多々ある。
(変転するこの世界は空であり、世界それ自体には意味がない、といえるのかもしれない。あるのは世界を解釈する目であり、世界がおぞましいのではなく、おぞましいものしか見ようとしない自身の目に、問題があるのではないだろうか。で、あれば、真の解放は、この目(認識)に関わっているのだと…)
などと、究極的な解放について思い巡らすことなど、できるはずもなかった私は、人一倍、感が強い子供だったのだろう。知らず、母の世界を取り込んでしまい、幼稚園までの明るさはどこへやら、たちまち、うつむく少女に変わってしまう。
当時の母の自慢と希望は、優秀な姉だった。子供の頃から自己実現の道をめざしてまっしぐらに進んだ姉は、母に反応することもなく、本人いわく、《挫折ゼロ》で来た人だが、
こうした姉の生き方も、社会に出てしまえば、one of themでしかなく、《人生大学》で、素晴らしい方たちに会い続けるようになった私は、子供時代の点数評価が、絶対でないことにも気づいてゆく。
しかしそれとて後のことで、世界が狭かった頃の私は、小学校に入学すると同時に、三歳上の姉の圧力を、いたるところに感じるようになる。
私のまわりには、様々な圧力が渦巻いていた。喜びを見出すためには、いささかの労苦が必要な環境だったが、それでも今の私は、“この環境こそ”私に必要なものだったと思っている。
魂のレベルでは、人はふさわしい親を選んで生まれてくるのではないだろうか?それぞれの人は切なる願いを抱いて世に生まれ、その願いが最も実現されやすい経路であるところの、親兄弟を選んで生まれてくるのではないだろうか。
私の場合、子供時代は、こうした両親や親戚のもとで、後には、人を看取り、酔客をあやし、病院やバーを学びの場とする極端な道を選んできたわけだが、知らず、過酷シリーズを繰り返した私は、もしや“特別な喜び”を見出そうとしていたのではないだろうか・・・・・・・・*・・・・・・・・・*・・・・・・・・
もちろん、毎回、そうせざるをえない気持に押されてのことではあったが、意識下には、一切の条件を越えてある、純粋で、強靭な“普遍の喜び”を求める気持ちがあったと思えてならないのである・・・・・・*・・・・・・・・*・・・・・・・・・・*・・・・・・・・・・・・*・・・・・・・・・・・・・・
(ということがわかってくると、人は与えられた環境を受け入れ、被害者意識を捨てることができるようになる。短い人生、だれも被害者意識、加害者意識に引きずられて生きるのは嫌だろう。ゆえに、この小さな連載も、苦労話をすることが目的ではなく、これまでのコラムや絵物語と同じように、解放を促すためのものであることを、強調しておきたい)
等々、寄り道をしながら、時空の変化も織り交ぜながらで、ややこしいことしきりだが、今は先を急がず、過去トンネルの掘り出しを、もう少し、続けることにしよう。
そう…塵にも等しい、ちっぽけな虫は、明るい戸外を避けるかのように、闇の中へと入ってゆく。まるで、その闇こそが、最初の変化を生み出す産室であると知っていたかのように、内へ、内へと入ってゆく…
※続く。
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