愛についての雑感
あらゆるところに“愛”があふれている。街、新聞、TV、ラジオ、ネット、いたるところで語られ、追い求められているのが「愛」なのだが、誰もが知っている(つもりの)愛とは何か、説明してといわれたら…
そもそも、人間にとって重要なこの概念を、「愛」という、一言の日本語に押し込めてしまったことに、無理があるのではないだろうか。
ちなみに、ギリシャ語では、愛には三つある。
・フィリア(友愛)・エロス(性愛)・アガペー(至高の愛)
うち、エロスを《 美との一致の願望 》といわれた方もいるが、それはともかく、わが国ではこの三つがごたまぜになり、もっぱら、エロスについてだけ語られているような…
もちろん、私はエロスを否定するものではない。私たちに様々な喜びをもたらすそれは、創造の神秘と繋がる尊いエナジーであり、あらゆる創作に欠くことのできない、活力でもあるからだ。
たとえば鮭の産卵や、動物の交尾、ミツバチによる受粉や、彼方を泳ぐ雌を慕って歌う、ザトウクジラの声…それらを見たり、聞いたりする時、内なるエロスが共振し、おのずと歌が生まれてくる。
本来、エロスは、よきものといえるだろう。(これを否定してかかると、様々な捩れが生まれてくる。老人でも聖職者でも人間である以上、その情動はあり、否定は人間否定となり、苦悩が生ずる)
だが、このよきものも、エゴ(自我)の支配下に入ってしまうと、私たちは、いとも簡単に誤用してしまう。
私も含めた多くの人は、日々、様々な思い込み(投影)によって自他を値踏みし、見えない檻の中に自身を閉じ込め、与えられた今という時を、苦いものにしてしまう。
相手を“所有”したいと熱望していたのに、所有した途端、興味を失ってしまう人もいる。互いを解放しあうことを願うのではなく、自分を喜ばせる“道具”とみたて、相手を支配する喜びにかられる人もいる。
自身の苦悩の原因を、とりまく環境や人のせいにする人もいる。貧困や病気や災害等、環境にも大きな要因があることは確かだが、ようは与えられた環境をどう見るかで、選んだ伴侶に不満を言い続ける人もいれば、重度障害を持つようになった伴侶を介護する、輝くような笑顔の人もいる。
そして愚かな道を辿る途上、「愛の放浪者」や「愛の実践者」を山と見てきた私は、次第に思うようになったのだ。
たとえば、
「君の目ってステキだね」
彼氏から、こういわれてうれしいのは当然だが、と見ている彼の目は、自分もそうであるように、変わりやすい目でもある。あてにならない目に自身の存在価値をゆだねてしまえば、日々牢獄だが、アガペーの中に生かされている自分を知った上で、その目を楽しむことができれば、こんなに楽で、強いことはないだろう。
私の場合、《絶対愛》は、様々な人との出会いを通して、キリストからやってきた。
人からの評価を超えた絶対価値が与えられたことで、捕らわれから自由になり、状況の如何を越えて、湧き続ける泉のような、喜びを覚えるようにもなってきた。
もちろん、私も人間である以上、今後も、的外れな投影をして、落ち込むことはあるだろう。衰えてゆく体や能力を知るにつけ、ふさぎこむこともあるだろう。しかしその時でも、共にいるキリストが、断言してくれている。
わたしの目に、あなたは高価で尊い。イザヤ書43-4
私たちは、本来、神の傑作。そのことを繰り返し味わいながら歩き続けることで、次第に透明になり、いつしか、空っぽの管となって、神の息吹によるところの、風を通すものに変えられてゆくのである。
というわけで、我が定義を以下に記せば、
愛は何処にもある永久不滅のふいご。ねだるものではなく、見出し、かつ、与えられるものであり、与えられた愛は、それぞれの個性を通して流出し、喜びの波紋をさらに広げてゆく、世にあって尊い宝なのである。
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